永井 明彦
前回のこの欄で、親友の正岡子規から俳句の手ほどきを受けた夏目漱石が、実は子規の写生主義に違和感を持ち、むしろ、子規によって発掘された与謝蕪村の絵画的な空想趣味に共感して蕪村の句を連想させる多くの句を作り、見方によっては、漱石は最大のブソニスト(蕪村派~蕪村愛好家)ではないかと書きました。文芸評論家、森本哲郎氏の『月は東に』はこの見方を強く裏付けます。氏は少年時代に蕪村と漱石の作品に親しみ、その驚くべき類似点に気付いたといいます。次の漱石の五句をご覧下さい。
春雨や京菜の尻の濡るゝほど
二三片山茶花散りぬ床の上
絶頂に敵の城あり玉霰
二人して片足づゝの清水かな
骸骨を叩いて見たる菫かな
これらの句から以下の蕪村の名句を想い浮かべるのは、極めて容易だと森本氏は言います。
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど
牡丹散ってうちかさなりぬ二三片
絶頂の城たのもしき若葉かな
二人してむすべば濁る清水哉
骨拾ふ人にしたしき菫かな
芸術は前時代の巨匠が確立した様式の模倣や模写で始まると言いますが、上記の漱石の句は稚拙な剽窃といってもよいような本歌取りです。このように、漱石には蕪村の句調をそのまま模したとさえ言えるような句が、おびただしく見られます。ただ、いかにも真似した相手が悪い。蕪村以上の句にはなりようがありませんからね。
また、蕪村には「御手討の夫婦なりしを更衣」という有名な句があります。おそらくは不義をはたらき、お手討ちの罪を受けるはずの男女が許されて夫婦になり、さっぱりとした衣に着替えて身も心も軽く、しかし、ひっそりと生きていくという、人間の営みを歌う一編の小説のような蕪村らしい句です。森本氏によれば、この句境を実際に小説にしたのが漱石の『門』だといいます。『門』もまた不義という「暗い過去」を背負った夫婦を描いており、確証はないにしても、執筆した漱石の心中に蕪村のこの句がなかったとは言い切れないとしています。そして、漱石には「罪もうれし二人にかゝる朧月」という句があることも紹介しています。
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」という有名な書き出しで始まる漱石の『草枕』は、漢籍の素養に富む高踏的で難解な小説です。昨年は漱石の生誕150年、一昨年は没後100年でしたが、日露戦争で世情が騒然としている中で『草枕』は執筆されました。小説の核となるのは漱石の芸術観であり、洋の東西の文明評論ですが、普通の小説と違ってプロットもなければ、事件の発展もありません。森本氏はこれも蕪村が俳諧で描いた一種の理想郷を漱石が小説化したもので、主人公の画工(絵かき)は蕪村その人に違いないと断言します。漱石は審美的観察者としての画工を通して、旅先で出逢う人間も悉く大自然の点景として捉え、日常的な時空を超脱する「非人情」の世界を描きました。本欄では蕪村に傾倒した漱石について触れるとともに、『草枕』に心酔したもう一人の芸術家、カナダの天才ピアニストにも焦点を当ててみたいと思います。
オランダの史家ヨハン・ホイジンガは、名著『中世の秋』で人間は三つの生き方(道)を選んできたと述べています。第一の道は、俗世間を捨てて彼岸に望みを託す宗教的な情熱、哲学的な神を希求する生き方です。次に第二の道、宗教が夢見る彼岸の世界を此岸に打ち建て、現実の社会を変革し改良しようとする理想実現への道が現れます。しかし、人々の歩む道はこの二つに尽きるわけではなく、もう一つの道、すなわち二つの道の間にあって、住みにくい世を少しでも美しく彩り、夢の国に遊ぶことで明るく生きていこうとする第三の道があるというのです。この道は現実との関わりを持ちながらこの世の生活を芸術の形に造り変える歩みで、ホイジンガはヨーロッパの中世末期の文化や生活の豊かさをこの視点から捉えました。
森本氏によれば、松尾芭蕉は第一の道を目指し、蕪村と漱石は第三の夢と遊びの道を歩もうとしました。『草枕』で描かれた、「真」よりは「美」を伝えることを専らとする「非人情」の世界とは、この道に他ならないと。しかし、漱石は蕪村を手本として同じ道を目指したけれど、それが幻に終った人としています。考えてみますと、日本の古い時代の歌人は西行や芭蕉を始めとして僧侶が多く、その芸術は宗教的、哲学的です。詩歌に限らず、日本人は常に求道者を高く評価し、茶道、華道、剣道、柔道しかり、遊びのない求道的な苦しい道、即ちホイジンガの第一の道を追求する者が多い。我々日本人には、真の心のゆとりや遊び心が欠けているようで、少し残念に思いますね。
『草枕』には、「那美」という出戻りの美しい女性が出てきますが、彼女は「身投げして浮いているところを画に描いてほしい」と画工に頼み込みます。しかし、こんな奇矯な言動をするヒロインの絵を描きたいと思っても、なかなか描けない。「非人情」の世界の一方では、「俗人情で那美を見て人情を超越できない」画工がいるというのです。水死美人のイメージは、漱石が那美の身の上と重ね合わせて連想した、ミレーの『オフェーリア』の面影が下敷きになっています。漱石はロンドン留学の折りに、テイト・ギャラリーでミレーの『オフェーリア』を観ているんですね。作者のミレーは『晩鐘』や『落ち穂拾い』を描いた仏バルビゾン派のミレーではなく、英国ラファエル前派のジョン・エバレット・ミレーです。オフェーリアはシェイクスピアの『ハムレット』に出てくるヒロインですが、ミレーはドレスを着たまま虚ろなまなざしを虚空に漂わせて水草が繁茂する川を浮いて流れるオフェーリアを描きました。
『草枕』の画工は、流れていく人の表情が全然色気のない平和な顔では人情が写らない、ミレーとは異なる気の触れた風流な土左衛門の顔を描きかったというのですが、彼女の顔を描こうとしても何かが足りない。けれど、最後に那美の前に別れた亭主が現れ、「憐れ」が彼女の顔一面に浮かび、「胸中の画面の成就」となるといって小説は終ります。次の二つの句は那美と『オフェーリア』を結びつけた漱石が、当然思い浮かべたであろう蕪村の秀句です。
昼舟に狂女のせたり春の水
枕する春の流れやみだれ髪
さて、カナダのピアニスト、グレン・グールドはコンサートを否定し、レコーディング一辺倒に走った偏屈だけど魅力的な天才ピアニストです。夏でも寒いからと、黒いコートを着込んでスタジオ入りし、唸るようにハミングしながら独自の解釈でバッハやモーツァルトを弾くので有名な演奏家でした。グールドは1956年にバッハの『ゴルトベルク変奏曲』を録音してセンセーショナルなデビューを飾りました。このデビュー盤でグールドを知りましたが、彼の弾くモーツァルトの『ピアノソナタ11番(トルコ行進曲付き)』を初めて聴いた時の驚きは今でも忘れられません。グールドはモーツァルトは嫌いだと言っていたそうですが、普通のピアニストがアップテンポの軽快な調子でこのソナタを演奏するところを、グールドは信じられないほどの遅さで第一楽章を弾き始めます。異例の遅いテンポのグールドの演奏の方が、モーツァルトの良さを引き出しているように聴こえてくるから不思議です。彼のモーツァルトのピアノソナタ集は私の愛聴盤となりました。
そんな彼は大変な文学青年でもあり、特にトーマス・マンの『魔の山』と、何故か漱石の『草枕』を愛読し、特に『草枕』を異常なほどに高く評価していました。この小説を20世紀最高の小説とまで言い、死の前年である1981年にラジオで『草枕』の朗読番組を作り、死の床には聖書とともに子細な書き込みがされた翻訳書があったといいます。『草枕』というタイトルなら英訳は「The grass pillow」などとなりそうですが、翻訳者のアラン・ターニーという人は「The three cornered world」と訳しました。本書の中に「四角の世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでよかろう」という一節があるからといわれています。
『草枕』は古色蒼然としたところがある小説ですが、グールドが50年前に出会った英訳版は外国人にとっては非常に読み易く、日本語版とは趣がかなり異なるようです。現代の日本人が読むのも大変な『草枕』を、よくも外国人が訳したものですが、一体、グールドは時空を超えてこの小説の何に共鳴したのでしょうか。敬虔なキリスト教徒の両親の教育のもと、古い時代の価値観を持ちながら大戦後の時代を生きたグールドですが、漱石の東洋的な芸術観に絶対的なものを感じていたのでしょうか。「修善寺の大患」とも言われた胃潰瘍と神経症やPTSDを病んだ漱石と病弱でパラノイアの天才グールド、二人の間には、俗人が伺い知ることのできない、時代を超越した精神の交流があったように思わざるを得ません。
最後に参考図書を記して駄文の筆を擱きます。
1)森本哲郎著『月は東に 蕪村の夢漱石の幻』(1997年、新潮文庫)
2)横田庄一郎著『「草枕」変奏曲』(1998年、朔北社)