小林 晋一
ドナルド・キーン氏が今年2019年2月に亡くなられた。ご高齢ではあったが、もう少し長く生きていてほしい人であった。残念でならない。これは氏を知るすべての人の気持ちであろう。
この本を読むまではキーン氏に関して知っていることといえば、米国人でありながら、日本語、日本文学、文化について超一流の学者、著述家で、日本のよき理解者でその著作はおびただしい数にのぼるという程度の表層的な知識しかなかった。5〜6年前に近所の書店でたまたま買って、そのまま本棚に眠らせていた氏の全集8巻、新潮社版を2年前頃から寝る前の読書に、少しずつ読み始めてはいたが、まだ半分くらいしか進んでいない。読んだ後から忘れてしまうので、頭に残っているのは何もないといってもいいくらいである。本書もこの会報の責務を全うするため本棚に積んでおいたものを、急遽取り出してきて読んだしだいである。
この本は、編者の河路女史が直接キーン氏にインタビューした内容をまとめたもので、そのため一読して、行間からキーン氏の生の声が聞こえてくるような気がする。このインタビューの実現には氏のマネジャーで、後に養子縁組をすることになる鶴澤浅造こと上原誠己氏の一助もあったという。この本の最後尾近く「インタビューを終えて」の中で「私の人生は、1936年のスペインの内乱と、太平洋戦争という2つの戦争に大きな影響を受けている。それがなければ日本語に出会うこともなく日本文学を知ることもなかったし、海軍日本語学校に入ることもなかった」と述べている。この時代の大きな流れがキーン氏を日本語、日本文学に導きその才能を開花させ、日本語、日本文学が世界中に広く、深くいきわたる結果となった。氏の日本への貢献はあまりにも大きく計りしれない。
以下、内容を抄出する。氏は1922年にニューヨークで生まれ、父は貿易商。9歳の時、父の商用についてヨーロッパを見聞する機会に恵まれ、フランス語に魅了され、外国語を学ぶことの意議を知ることになった。フランス語は氏の最も愛好する言葉となる。
学業成績は抜群で飛び級の結果、1938年に16歳でコロンビア大学に入学。氏の大学時代は「日本の思想史」講座で生涯の師と仰ぐ角田柳作先生に出会ったり、中国人の学友から中国語や漢字を教わったり、ニューヨークの本屋でアーサー・ウエーリによる翻訳『源氏物語』をたまたま購入したり、1941年の夏、友人に誘われ二人で友人の別荘で日本人から日本語を学んだりと、日本語の道に進む萌芽の時代でもあった。
1942年、海軍日本語学校の存在を知り、ただ日本語を勉強したいというだけの気持ちで入学した。学年30人、毎日4時間の授業のうち、2時間は読解、1時間は会話、1時間は書き取りで、毎週土曜日には試験がありその成績で能力別のクラスにわけられた。戦時下の状況から11か月で卒業し戦地に出征することになった。このわずか11か月間で、新聞を自由に読み、日本語で手紙や短い報告文を書き、日本語で会話することができるようになっていた。先生方は米国の大学で日本語を教えていた人はわずかで、多くは米国籍があり、日本で中学かそれ以上の勉強をして帰ってきた二世の人たちであった。皆、親切で全身全霊をこめて教えてくれた。教科書は長沼直兄の『標準日本語読本』で、この本はキーン氏が著者に敬意をこめて「ナガヌマリーダー」と呼び、教科書としては傑作であると称賛している本である。授業は初めから、日本文字で書いたものを見て「これは本です」と読むのだと教えてもらい、その発音を覚えると同時に文字も覚えていく、漢字も合わせて覚えていくという方法で、これが日本語を覚えるのに一番いい方法だと再三指摘されている。漢字は一つずつ書き順も教えてもらい、その日に習った新しい漢字や言葉はその日のうちに覚えるように一生懸命に覚えた。
日本語学校を卒業した後、ハワイの真珠湾に派遣され、押収された日本語文書を翻訳する部署に配属された。そこで日本兵の日記に出会うことになったが、それは感動的で、夢中になって読み、日本人の日記文学は、その後の氏の大きなテーマの一つとなった。ハワイでの休暇はすべて、ハワイ大学で日本文学の勉強をすることにした。戦争中にもかかわらず、ハワイ大学では充実した日本文学の授業がおこなわれていた。先生は上原征生先生で、前期は毎週先生の選んだ日本の近代小説、武者小路実篤、菊池 寛、谷崎潤一郎などの小説で、週に1冊読んで日本語で感想文を書くという授業であった。後期は源氏物語を原文で読むことに挑戦したが、大変難しく桐壺の巻を読むだけでおわった。
1946年除隊後、コロンビア大学に戻り再び角田柳作先生のもとで勉強を始め、西鶴の『好色五人女』、芭蕉の『奥の細道』、能の『松風』『卒塔婆小町』、近松門左衛門の『国姓爺合戦』などたくさんの作品を読んだ。その後、新しい環境を求めハーバード大学に移り、エリセーエフ先生の授業を受けたが、日本文学史の授業は古いノートを一本調子で読み上げるだけの無味乾燥なもので失望し、後日、自分の講義では反面教師として参考にさせていただくことになった。1948年の秋、ケンブリッジ大学に移り、博士論文を仕上げる傍ら日本語と日本文学の教師としての一歩を踏み出すことになった。
1952年、サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復すると、夢であった日本留学が可能となり、1953年から2年間、京都大学に留学し京都で暮らすことになった。この下宿の「文机」で、たくさんの日本文学を読み書いた。後に世界中の日本語、日本文学の研究を志すほとんどの人が読み、大きな影響を受けた『日本文学選集・古典篇』『日本文学選集・近代篇』も編集した。1955年、教師としてコロンビア大学に戻り、京都で編集したこの2冊の日本文学の選集を出版した。
以降2011年4月26日、最終講義までの56年間とケンブリッジでの5年間の合計61年間を日本語、日本文学の教育に捧げ、多くの日本語、日本文学の研究者や教育者を育て、その人たちを世界中に送りだした。
日本の古典文学を教えるときは、基本的には英語で講義をしたが、その場合でも翻訳が大切で、どのように最もふさわしい英語に翻訳するかということが授業の中心であった。日本文学史の授業をするときは、エリセーエフ先生とは反対に、ノートを持たないで教室に行き、その時話題になっていた作品のどこに自分が感動したかを直接伝え、こういう情報はどのように調べればわかるかを教えた。研究姿勢はテキスト中心で原文を丁寧に読み、歴史的背景を踏まえて議論を展開することを貫いた。一方、氏は豊かな人格者で、謙虚で他者を思いやり何事にも偏見がなく人間みな平等で、対等な関係が好きであるという平等主義者であり、平和主義者であった。
退官のあとの残りの人生は、大好きな日本で日本人として暮らしたいと思うようになり、熟慮の末、日本の国籍を取って、日本に永住しようと心に決めた。私の一番嬉しいと感ずることは日本で暮らすことだと、私は日本に感謝しており、日本を愛しているからであると。
読み終えて大きな感動を覚えるとともに大変うれしい幸福な気持ちになった。この本にはキーン氏に関することが満載されており、キーン氏の研究を始めようとする人には必読の本である。私のドナルド・キーン全集の読書スピードもアップするものと期待される。
『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』
著者 | ドナルド・キーン 河路 由佳 |
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出版 | 白水社 |
発行日 | 2014年9月30日 |