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落日燃ゆ

伊藤 久彰

善き戦争は無い。悪しき平和は無い。戦争を防止できなかったのは、怠慢の罪か?

開戦に反対の立場を貫きながら、戦争を阻止できず、東京裁判では絞首刑となった、唯一の文官・広田弘毅の生涯。

人間、誰しも運・不運があり「運も実力の内」とは言いながら、避けられない運も多い。東京裁判でA級戦犯として絞首刑になった7人の内、6人は軍人であり、広田弘毅は文官の代表として、その責任を問われた。A級戦犯が収容されていた巣鴨刑務所内では、一時、広田弘毅の無罪釈放説も流れたが、その判決結果は裁判官11人中6対5で有罪死刑であった。広田弘毅はいっさい弁解せずにそれを受け入れた。

広田弘毅と戦後長期にわたり総理大臣を務めた吉田茂とは外務省入省の同期であり、しばらくは同じような道をたどっていた。しかし、吉田茂は鼻っ柱が強く、しばしば軍部と衝突して逮捕されたこともあった。一方の広田弘毅は「ぐず」と言われるほど性格は温和であり、その反面、こつこつと知識や情報を収集する能吏であった。この二人の性格の違いが、軍部主導の当時の政府において、広田弘毅は外務大臣から総理大臣に祭り上げられて利用され、戦後に南京虐殺などの責任を追及されることとなった。一方の吉田茂は戦犯を免れて戦後の政治を担うことになるのである。

広田は福岡の貧しい石屋の倅に生まれたが、親の反対を周囲が説得してくれて黒田藩の流れをくむ修猷館中学(卒業生には、中野正剛、金子堅太郎、山崎拓などがいる)に進む。このことが山崎拓と同様に広田弘毅も「大アジア主義」を唱えた政治結社:玄洋社の思想を学ぶことになったのである。広田は当時の社会事情から最初は軍人を目指したが、日清戦争後の講和条約などで、戦争には勝ったが、外交には負けた日本の非力を感じて、途中から外交官をめざすことにした。

そして一高、東大と進み、外務省に入った。外交官になってからも広田は自ら進んで出世しようとは思わず、「風車、風の吹くまで昼寝かな」と自嘲するほどであった。しかし、世間はこの能吏をほってはおかなかった。広田は温和ではあったが、頑固なところもあり、軍部も業を煮やしたこともあった。しかし、結果として、広田は軍部の突出を抑えることができなかった。東京裁判ではその責任を問われても、殆どそれに抗弁することなく、むしろ誰かが責任を負わなければならないならば、自分に責任があると考えていた。そして死刑との判決結果が出た時には検察団からも意外という声が聞かれたほどであった。東京裁判の検察官の中にはFBI出身者も多く、直接被害を受けた中国人などの証言も多く取り入れたが、旧日本軍部の中の内部告発者を探し出して証言させたりした。その中には自分の責任逃れのために、他人の責任を暴きたてたりする者も出てきた。一方、日本側では、なるべく少数の人に責任をとってもらい、更には天皇に責任の及ぶのを避けようとした。

広田の家族は裁判の結果を静かに受け入れた。妻:静子は広田の刑執行前に、家族揃って夕食に子供達の好物の混ぜご飯をたべて団欒の後、その夜、静かに自決をした。夫には後に憂いのないように、また、先に行って待っています。という気持であった。広田はそれを聞いて静かにうなずき、数日後に旅立った。

戦犯の遺灰は駐留軍によって処理されたが、残りわずかを日本側で集めて、戦犯家族に分けて引き取ってもらった。広田家ではその受け取りを断り、また広田家では、その後も靖国神社に一切、参拝をしていないと言われている。人の上に立つ者は常にその責任の取り方を、見苦しくないように考えるべきである。

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城山三郎 昭和の戦争文学 第五巻
落日燃ゆ
終戦六十周年記念企画

著者  城山 三郎
出版社
角川書店
定価
本体1,900円+税

 

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