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『「坂の上の雲」と日本人』

小林 晋一

司馬遼太郎著「坂の上の雲」を読んだのは1974年の秋であった。30年余経って記憶に残っているのは、正岡子規、秋山真之をめぐる明治20年代から30年代の明るい生き生きとした青春群像であり、伊予弁の和さであり、日露戦争における乃木希典である。

著者はあとがきの中で、「坂の上の雲」を精読するといった感じの本を書かないかとさそわれ、月に1回出版社の若い編集者にレクチャーをする、それを後で手直しして毎月誌上に連載するというやりかたで始めた。その精読、レクチャー、鋭い質問や指摘のもみ合いの中からこの本が生まれたと述べている。著者は司馬の作品を渉猟し、同時代の日本や世界の歴史的事件に目を配り、同時代の作家や関係する作品や文献・資料を通し作品の成り立ちや意図を詳述し、のちの、この作品の評価についても紹介している。この本が著者の司馬文学への思い入れとレクチャーに参加した多数の若い編集者達の広い視野から成り立っていることがうなずける。

「坂の上の雲」は1968年から72年まで産経新聞に連載された。もともと子規が好きで、調べているうちに秋山好古、真之兄弟の家が近所にあって、弟の真之がたまたま同級生で友人であることを発見する。ある地域、ある町内がその文化風土から独特の人材を生み出すという司馬の考え方があり、松山藩の文化が同時期に産みおとした秋山兄弟と正岡子規を文武両道から描こうとしたのが最初の発想であった。著者は司馬の文庫版八「あとがき 五」から引用する「子規の明るさは、そういうところにあったであろう。かれは開明期をむかえて上昇しつつある国家を信じ、らくらくと肯定し、自分の壮気をそういう時代気分の上にのせ、時代の気分とともに壮気がふくらんでゆくことにすこしの滑稽感もいだかず、…明治というこのオプティミズムの時代にもっとも適合した資質をもっていたのは子規であったかもしれない」。さらに、本書の末尾ちかくで引用されている有馬 学の一文を置いてみる。「日露戦争までの日本はそれなりにまともだったが、その後何かがおかしくなった。何かがおかしくなった日本の行く先は日中戦争、太平洋戦争である。こうしたイメージを浸透させた最大の著作は、「坂の上の雲」であろう。そこでえがかれた明治人は、想像されるよりずっと合理的であり、国際法を守り、なおかつ人間的に魅力にあふれている。

1901年ころの日本からみた世界情勢は、ロシアの南下が国の存亡にかかわる危機であり、国民の恐怖であり、同時に欧米列強にとっても由々しい問題であった。各国のさまざまな思惑の中で、1902年日英同盟成立、1904年の日露開戦につながった。自由国民社の「読める年表」日本史:1905年から引用する「奉天大会戦と日本海海戦で日露戦争はどうやら勝利のかたちで漕ぎつけた…」。

日本海海戦の勝利につながる旅順要塞攻撃の第三軍司令長官乃木希典は「坂の上の雲」の重要な登場人物であり、同時に乃木大将の描きかたは、この長大な物語の根幹の部分をなしていると思われる。この小説が発表されて以来、1972年以降乃木希典無能説、第三軍参謀長伊地知幸介無能説は広く流布している。著者は司馬の著書から司馬の乃木観を抄出している「要するに精神主義者乃木希典は、高潔さや闘志ではなく、兵器と兵站と作戦と国際広報が勝敗を決める身も蓋もない戦争という歴史的事業には不向きな人であった」。「本来が実務家よりは詩人であるために、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できるというのはどういう体質であろう」。著者は司馬に、悲劇を自分の美的世界に組み入れその主人公として憂鬱の中心に安らぐ乃木のセンスに嫌悪する気配が感ぜられる、昭和陸軍の精神主義の源流をなしたと目される乃木希典にあらかじめ好意的であるはずがないと述べている。

一方、日露戦争で伊地知幸介のもと、参謀中佐であった白井二郎陸軍中将が陸軍大学校で昭和4年に行った講義の中で、旅順攻略戦は失敗だらけであった。しかし、それは日露戦争全体を通じていえることであること。福田恆存は旅順要塞の堅固さはまったく不明であり、強襲と「肉弾」によって実態を知る以外に方法がなかっただろう。だれがやってもそうなったはずのことを、乃木・伊地知の無能に帰すのは酷であると述べていること。また、乃木・伊地知無能説の根拠となったと思われる谷 寿夫の「機密日露戦史」について、その基礎資料が客観性を欠く上、著者の谷自身もこれは正式な「戦史」ではないと但し書きをしていること。著者はこれらを紹介し、後から冷評して「成っては居らぬ」と評価せざるを得ないのは旅順攻略戦だけではなく、日露戦役全体を通していえることであり、日露戦役をなんとか勝利にとどめ得たのは努力と勇気と犠牲のたまものであったが、なによりも僥倖によるものであったと思われると述べている。

「坂の上の雲」完結間もない1972年晩秋、「東大教養学部報」のために行われた平川驢弘、木村尚三郎、井上 忠、鳥海 靖と芳賀 徹の座談会「国民文学としての司馬遼太郎」での評価「面白い、これで日本の歴史学の固陋で偏頗な近代暗黒史観が払拭される」と専門家からも高い評価を受けたことが紹介されている。

司馬はよく言う、どの歴史時代の精神も30年以上は続きがたい。「偉大な明治」という言い方は明治末すでに一般化していた。それはおもに日露戦争後の弛緩ぶりをいさめるときに使われた。日露戦争1年後、日本社会の弛緩ぶりを映した国木田独歩の「号外」という短編の終末部が引用される「(明治)三十七年から三十八年の中頃までは、通りがかりの赤の他人でさえも言葉をかけて見たいようであったが、今はまた以前の赤の他人同士の往来になってしまった。そこで自分は戦争でなく、ほかに何か戦争の時のような心持ちにみんながなって暮らす方法はないか知らんと考えた。考えながら歩いた」。

この明治20年から30年にかけての時代相は昭和戦後の時代相に似ている。それは「国家の軽さ」という点からであるという。それぞれの後に来る時代、すなわち前者は大正から昭和戦前であり「国家が重かった時代」である。後者はバブル以降の現在といえる。昨今の社会情勢をみるとますますその感が深くなる。この本を読みながら、自分が「坂の上の雲」を読み、司馬文学を考えているような気持ちになってしまった。このため、この感想文は関川の文章をなぞるだけになってしまっている。ただ専門家の文章の方がはるかに読みやすく、わかりやすい。関川氏にお詫びすると同時に感謝したい。もう一度「坂の上の雲」を読み直したいと思っている。

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『「坂の上の雲」と日本人』

著者 関川 夏央
出版社 文藝春秋
定価 1,714円+税

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