ホーム > 新潟市医師会会報より > マイライブラリー >

『美しい死』

櫻井 浩治

私が、「病いを持った人間全体」に目を向けた「心身医学」に関心を持ったのは、県立がんセンター新潟病院でインターンをしていた時であった。この「心身医学」の実践を学ぼうとして慶応義塾大学の精神神経科学教室の門を叩き、結局はこうした態度は医療に携わるものとして当然な基本的態度であり、私自身についていえば、専門科目として選んだ「精神科」の臨床医としての研鑽無くして「心身医学」は達成されない、と思うようになった。だから、という訳でもないが、新潟に帰ると、当時の第二内科の木下教授や神経内科の椿教授の回診についてみたり,小児科の先生方との検討会を持ったりし、同僚で難しいといわれるような症例を、むしろ好んで受け持っていた時期があった。

しかしここ10数年間、たまたま大学の管理職に携わることになり、職務専念という公務員倫理のもとに臨床から離れた日々を送ることになったことが、少々無くしかけていた臨床への自信を、更に輪をかけて削ぎとる羽目となり、もう一度臨床につくのが不安になっていた。

また「心身医学」の標榜科目が「心療内科」と決まった平成8年頃から、私が思っていた「心身医学」の方向性が少しずれてきたように思え、これも時代の趨勢かと寂しくなっていた。

こうした折に、昨年の1月、九段坂病院の副院長、畏友山岡昌之氏から、東京で開かれる日本心療内科学会で元東大総長森 亘先生が「心身医学」について話されると聞かされた。

森先生は、東京医科歯科大学及び東京大学の医学部病理学教授を務められ、東京大学総長、医道審議会会長、日本医学会会長等々を歴任され、文化勲章を授与された方である。1926年生まれとのことであるから、私の10歳年長の方ということになる。私は会員ではなかったがその講演を是非聴きたいと思い、上京した。当日のお話の内容は、日頃私が思っていた「心身医学」に相通ずるものであったので、いたく感激し、山岡氏にそのことを伝えて新潟へ帰った。

そしてこの春、今度は森先生の書かれた「美しい死」という本を山岡氏が送ってくれた。

早速開いてみると、この本には、坪井元日本医師会長との対談一編を含む「医学教育」「日本医学会」「病理学を巡って」「医療昨今」「科学技術と社会の理解」「医と人間」などの大きな項目に分けられた20編の講演記録が収録されていた。この中には勿論、昨年私が聴いた講演内容も納められていたが、その全てが、私の心に染み入るようなものばかりであった。

例えば、本の最初に置かれた「序に代えて最近の、日本の医療に思う」(平成16年10月、第10回伊藤医薬学術交流財団贈呈式・記念講演)では、先ず「自然科学の通例として、私は、どんな領域であっても自然現象を精細に観察し、正確に記載することが第一歩と心得ております」と述べ、続いておおよそ次のようなことが、極控えめな口調で語られている。

病理学者の仕事には、「剖検」という亡くなられた人の全体について解剖し、病理所見を求める仕事(病理解剖)と、「生検」という一部の組織を対象にする仕事(外科病理)の2つの領域があるが、外科病理に関連して、森先生が助教授として長く仕えた太田邦夫教授と、知人であったロバート中村という日本人二世のアメリカの外科病理医の二人が、しばらく病理医としての仕事をしなかった後に再開される時、二人とも「怖い」と言われた、というエピソードを伝え、また沖中内科で有名な沖中重雄教授が「患者が本当に厳しい状態に陥った時、主治医たるものは傍らに付き添って懸命に看病すべき、少なくとも四六時中その患者のことを考えろ」と教え、常に反省と勉強を怠ることのなかった医療態度を語り、その沖中教授が定年退職時に、自分の臨床診断と病理診断の不一致率を報告されたことに触れ、医療過誤には「これでは間違いが起こっても当然だ」と言う失敗と「十分に勉強した医師が自分の良心にかけて一生懸命行った仕事の結果としての過ち、これだけ周到に運んでも完璧とはいえないのかと考え込んでしまうような至らなさ」の両者が区別されずに、日本の社会では論じられているのではないだろうか、と述べられる。

またそれに加えて「to err is human, to for-give divine」(過つは人の常、許すは神の業)と言う言葉の、「err」の本来の意味は「mis-take」とは基本的に異なるもので、「道に迷ってしまう、分からなくなってしまう、その結果として誤りに通ずる」という解釈が正しいことゝ、キリスト教国の人であれば、前半分の言葉を聞けば自ずから後の半分のフレーズが頭に浮かぶもので、人間というものは全知全能の神に比べれば、過ちを犯す、迷いに迷ってしまうものだ、ということで、人間の、あるいは医師の不勉強、不注意への免罪符を意味するものではない、と主張される。

そして今日の日本の医療において大切なことの第一は、医師として医療従事者としての謙虚さが必要であり、そのためには専門的知識の教育だけでは不十分で、一般的な教養を含む教育や年配者が先に姿勢を正しての教育など、家庭、学校、社会がそれぞれ応分の責任を持った教育が重要であり、第二としては、我々が仲間と呼びがたい者もごく少数かも知れないが存在しているので、同業者のわれわれの集まりが責任を持って排除する自浄作用が必要であること。第三には、神の持つ能力と人間の持つ能力の差は絶対にゼロにはなり得ないことを医師も社会も良く知った上で、医療関係者や研究機関や役所等が協力してその差を少しでも縮めるために努力をし、医療過誤を生じないように努めること。更に何よりも患者と医師との信頼関係が最も大切で、医療従事者からの情報の積極的提供と患者となる人々からの寛容の精神によってそれが築かれる、と結論されている。

全体を通して私なりの勝手な受け取り方からすると、森先生はこの講演集で、自然と人間、専門性と一般性、死における宗教と医学、科学と運命、目に見える結果や見えない結果など、対立する存在や考え方に対して、それぞれの重要さや価値を認め、その上での「総合的に見る目」や「バランス」が大事であることや、医療の実際においては「今自分が何をどこまでやらなくてはならないか」という判断が求められるものであり、結局それは幅広い教育によって培われた医療従事者個々の良識、とりわけ個々の心の問題に左右されること、他国の制度や言葉を無条件に崇拝せず、日本の文化や独自性に誇りを持つこと、「身体」は「温かい心」によって裏打ちされるべきものであること、などを強く述べようとされているように思われる。

「メラトニン」研究の話も興味深かったが、最後の項に、この本の題名にもなっている「美しい死」についての講演内容が掲載されている。それは過不足無く治療されて死を迎えた遺体の病理解剖所見は「美しい」としか言いようがなく、これこそが「必要にして十分な医療」「品位ある医療」によるものであり、われわれはこうした「美しい死」を迎えたいものである、という主旨である。

そのためにも『後輩に、医師とは正しく誇り高く、世の尊敬を集めるべき職業であることを説かれ、「知識」と共に「教養」ならびに「品位」を与えていただきたい』と最後に結ばれる森先生の言葉に、私は襟を正してしまう。

私には到底このようにはいかないが、定年後の勤務先の大学で出会った若い教員と付き合ううちに、もう一度臨床に身をおきたくなった。

私は今、山梨の病院で畑をしたり人形劇をしたフレッシュマンの頃に戻って、臨床の場の片隅で患者さんと一緒に絵手紙を描いたり、ケーキ作りなどの手伝いをしながら過ごしている。

2008_02.jpg

『美しい死』

著者 森 亘
出版社 丸善
定価 本体2,200円+税

戻る