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『アンジュール ~ある犬の物語~』

黒田 千亜紀

私がこの本と出会ったのは1年位前のこと。書店の児童書のコーナーで、表紙の犬の振り向いた目に何かを感じて、どきどきするような、落ち着かないような気持ちで本を手に取りました。

表題の「アンジュール ~ある犬の物語~」、フランス語の原題である「UN JOUR,UNCHIEN」。この絵本に書かれた言葉はそれだけです。私を含め多くの日本人は、アンジュールというのは犬の名前だろうか?と思ってしまいますが、原題を直訳すると「ある日一匹の犬が」となります。鉛筆のデッサンだけの、色のない世界。ページをめくるたびに切なさが込みあげてきて、はらはらして、先を危ぶみます。やるせなさを吐き出すかのような、音のないデッサンに音を感じて、余韻を聴くようにしばしページをめくる手を止めます。高まる思いを静めるかのように広がる余白に寂寥を感じ、孤独を感じ、やがて対象にぐっと寄り添うような心持ちになります。そして最後に、希望の灯をともされ、小さな安堵が心を暖めます。

この本に出遭った時、ある人は心奪われて直ぐにそれを購入し、くり返し繰り返し読み返します。またある人は、出来得る限りの家族、友人、知人に薦め、同じ思いを共有したいと望みます。心の奥に秘めておきたいと願う人もいると思います。人それぞれに対象に共感し、時に表現しようのない感動を覚えるのです。ある愛犬家は自分の犬の思い出と重ねあわせ、ある作家は言葉を用いない線と空間のみの表現に打ちのめされます。

作者ガブリエル・バンサンはベルギーのブリュッセルに1928年に生まれ、美術学校で絵画を学び、以後デッサンに力を注いだそうです。最初の絵本の出版が1970年ですから、遅咲きの作家といっていいと思います。水彩画の絵本のシリーズを、ペンネームであるガブリエル・バンサンの名前で出していて、自国でも日本でも高く評価されています。しかし、アンジュールをはじめとするデッサンの作品群は、自国では本名のモニーク・マルタンで出版しています。そこに、作者のデッサンへの特別な思いを感じます。

とにかくデッサンの力量は大変なものです。けれども、デッサンの力だけでは人の心を打つ作品にならないことは言うまでもありません。多くの作家や評論家や、著名な方々が書評を書いているので、いまさら私が書き添えることはないと思います。あえてこの絵本に描かれている具体的な事柄を隠すような紹介になってしまったのは、実際に本を手に取って新鮮な感動を味わって頂きたいと思ったからです。

バンサンの作品で、どうしてもあと1つご紹介しておきたいものがあります。日本語訳が1996年に出版された「老夫婦」(BL 出版)です。同じベルギー出身のミュージシャンであるジャック・ブレルのシャンソンに添って描かれたもので、ブレルの「老夫婦」の歌詞が添えられています。

「絵本作家ガブリエル・バンサン」(BL 出版)という本の中に柳田邦夫が、この「老夫婦」という本について次のように書いています。

 

かつてシャンソンから受けていた寂しさとは、失われた愛にしろ失われた人生の刻にしろ、それらは人生半ばでの挫折感であって、例え言葉で表現していなくても、喪失後の寂しさや悲しみを受け止めて生きてゆく人生―言い換えるなら「それでも生きていく私」というものを確認するものであった。しかし、「老夫婦」には、そういう「生きていく私」という人生の続きがない。

<お金があろうとなかろうと、みじめさはかわりなく、もうゆめもなく、思いやりがあるばかり。>

厚ぼったいガウンを身にまとい、それぞれのソファに黙然と座っている老夫婦。背後に置かれた銀の置時計が無慈悲に時を刻んでいる。バンサンの淡彩を施した鉛筆画は、そうした人生の終末の寂寥感をたじろぐことなく見据え、表現している。
中略

バンサンの絵本(本当は詩画集と呼びたいのだが)の大半を読んできて私が感じているのは、どの作品にも孤独と寂しさが通奏低音のように流れているということだ。ただ、多くの作品において、その孤独と寂しさは、バンサンが合わせ持つ心のやさしさによって、物語の最後には癒されるシーンで終わるという構図になっている。

 

興味を持たれた方は、どうぞ恥ずかしがらずに児童書の絵本のコーナーへ足を運んでみてください。ご家族に頼んで買ってきて貰ったりせずに是非、書店で他のバンサンの本も実際に手に取って見てください。知らなかった世界が拡がるかもしれません。しかし残念ながら、どこの書店にも何冊も在庫があるような、そんな種類の本でもありません。もしも時間におわれ、インターネット注文に頼る場合でも、初めて本を開く時、できれば一人で、自分の時間の中でページをめくって欲しいのです。何故本の購入の仕方まで演出しなければならないのかと不思議に思われるかもしれません。それは、初めて「アンジュール」に出会ったときの胸の高鳴りを、ずっと忘れられなくなるような、そんな素敵な一冊になればと願っているからなのです。

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『アンジュール ~ある犬の物語~』

著者 ガブリエル・バンサン
出版社 BL
定価 1,365円(税込)

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