ホーム > 新潟市医師会会報より > マイライブラリー >

『一つの小石』

小林 晋一

市井の人の地方出版社からの、しかもかなり古い本である。2年ほど前に著者から頂き通読し感銘を受けたが、この小文を書くにあたり再読し感動を新たにした。

本の末尾の著者紹介をそのまま記載する。 

大正9年、見附市に生まれる。鳥取高等農林学校卒業後、昭和19年9月より昭和20年8月までフィリピン戦闘に参加。現在(昭和58年)高橋ニット株式会社社長。

この本は太平洋戦争の末期に特設第八機関砲隊隊長、陸軍兵科見習士官として激戦のフィリピン戦線に従軍した人の出征から帰国までの記録である。「フィリピン戦線回顧記」、「一つの小石」の2部構成になっており、二部は一部の補遺の役割をなしている。一部は出陣、輸送船、マニラ駐屯、クラークフィールド飛行場警備ならびに戦闘、転進、ネグロス島警備ならびに戦闘、密林の敗走、捕虜生活、帰国と9つの章から成り、経時的に述べられている。序の部分を抜粋する、終戦直後、私は記憶をたどってフィリピン戦線回顧記を書き始めた。転進までは比較的楽に書けたが、ネグロス島の地上戦になると、どうしても書けなかった。そのため執筆を断念し、戦争の悪夢を忘れようと努めた。37年の時を経て、ようやく懺悔の気持ちで書き記すことができた。戦争による私のもっとも恥ずべきことは負け戦とはいうものの部下を置き捨てたことであろう。一生の汚点としてぬぐい去ることはできない。

出征までの著者の略歴をたどってみたい。中学卒業の頃は病弱で、2年間療養したあと鳥取高等農林に進学。自然環境や学友に恵まれた鳥取の遊学は著者に心身の滋養をもたらした。週3回午後からの農業実習により、土に親しみ自然の恵みのありがたさを知る。昭和16年12月28日、高農2年生のとき日本が英米に宣戦布告。幼少期から南方諸国に興味をもっていたが、将来南方農業で国のために尽くそうと考える。戦況の悪化にともない学業を半年短縮、昭和17年9月20日卒業、10月1日高田独立山砲隊第1連隊に入隊。幹部候補生試験に合格。昭和18年5月から豊橋で8ヶ月、東京、平塚で3、4ヶ月の訓練を受ける。

出征時の緊張感、悲壮感を冒頭部分から引用する。「ザックザック玉砂利を踏む軍靴の音だけが5月中旬の朝の空気を震わせた。一言も発する者がいない。誰の顔も緊張していた。ある者は可愛い妻子を、年老いたる親を、あるいは自己なき後の家計を心配していたに違いない。哀別の未練が誰にもあったであろう。しかし、戦争の宿命よりくるあきらめがこれらの哀別の心をおおい、聖戦の美名のもと自己犠牲の悲壮なる決意があった」。

出陣から帰国までをたどる。昭和19年5月18日立川駅を出発。5月29日門司港出港。6月15日マニラ到着。1ヶ月半のマニラ駐屯。門司までの車中の緊張感、輸送船内の劣悪な環境、下痢による病苦、敵潜水艦の恐怖、移動時の兵器や弾薬の移送の苦役、マニラ駐屯期間は束の間の日常的生活、しかし、市街電車の中でピストルをすられる難に遭う。

昭和19年8月2日クラーク飛行場警備につく。9月21日敵爆撃機来襲。実戦と演習の差を実感。10月18日自陣地標的となり九死に一生。10月20日戦闘激化、毎日敵機来襲。遊軍の反撃は敵機が去ったあと、夕闇を利用し敵艦船への魚雷攻撃のみ。10月末制空権は米軍の手中。11月10日夜ネグロス島パゴロドヘの転進命令。11月18日ネグロス島に向けマニラ出港、11月21日ネグロス島上陸、シライ飛行場警備。残る自軍飛行機もわずか。12月に入ると爆撃機に加え敵小型機の飛来。一日中間断なく銃撃。

昭和20年1月中旬米軍上陸準備のためネグロス島徹底攻撃。自軍は身を守る兵器も少ない。2月に入ると地上戦闘に備え山ごもり、砲、砲弾の運搬、陣地構築。動物記のビーバーの住居造りを参考。4月初旬米軍新鋭M4戦車の出現。部下2名戦死、M4戦車に対し我が機関砲は無力、犬死にをしないため直接対決を避ける決心。戦車の接近により陣地を捨てる。三十六計逃げるにしかず、シートン動物記、ファーブル昆虫記の動物や虫の行動を思い出す。この件で上官からの叱責の手紙をもらう。はやる部下をなだめ犬死にを回避。米軍にとっては戦闘ではなく演習のようなものになった。

本文から抜粋する、「最前線の日課は、昼は狭いタコ壺に入って我慢の生活であった。狭いタコ壺はまさに地獄の責め苦でもあった。夜が来て砲撃が止むとはじめて我々は食事を作り排泄作用もゆっくりすることができた。

一方的な対峙が続いた。友軍陣地も迫撃砲や野砲の集中攻撃を受けた場所は草や木が吹き飛ばされ、赤黒い土はだがむき出しになっていた。そこには人っ子ひとりもいず、全山が友軍の死体から発する悪臭につつまれていた」。

5月中旬前線撤収の命。雨期に入り雨の中の敗走、食糧も米がなくなりモミだけとなる。モミを鉄カブトでついて精米し、ジャングルから食べられそうな里芋科の葉や根をみつけて雑炊にして食べた。投降勧告の放送を聞くようになる。行動をともにしてきた当番兵が、気が触れ行動をともにすることが不可能な状態となり、このままでは共倒れの状態になってしまう。苦渋の選択。6月毎日午後になると降雨。食糧も少なくなり、体力の衰え、杖で全身を支えよろけながら歩く。喋る気力もなくなる。立ち止まって横になれば死が待っているという思いが頭にあり、とにかくしゃにむに歩いた。雨期が上がる頃ジャングルを脱し平原に至る。餓死の危機を脱する。この間、幾多の危機に遭遇するも、幸運と直感と知恵で九死に一生をえる。

8月16ないし17日3時過ぎ頃、日本軍の無条件降伏を知る。9月1日バゴロドに投降。捕虜収容所に入る。昭和21年1月半ばレイテ島タクバン収容所に移住。3月初め帰国の途につき出航後1週間で浦賀に上陸。

この本を読んで感銘を受けた理由は次の2つである。第1は著者の高潔な人格、温かい人間性に触れられたこと、第2は大戦末期の激戦地での凄惨な記録であるが、客観性の高い正確な記録であることである。

著者は、幼年期は消極的で臆病な性格であったと振り返っている。幼児体験から軍人なんかになりたくないという気持ちを持ち、兵隊ごっこを好まなかった。長じて戦争に行くことが避けられないということが現実になったとき、自身を祖国のため犠牲になるという英雄心をもって自分を納得させ、すべてを運命に任せるという考えに導いた。一方多くの部下を失った時には、人間は何のために生まれ、何のために生き、何のために戦争し、そして何のために死ぬのかと考えると、これを一つの運命として諦めるには何か割りきれないものがあったと述べている。

マニラ到着時、疲労の中皆が荷揚げ作業をしている最中に仕事をサボった部下を叱責し殴ってしまう。そのあと、人を怒鳴ったり、殴ったりすることは自分の心を寂しくさせる。以後人を怒鳴ったり、殴ったりすることは止めることにしたと自省している。人命を尊重し陣地を捨て、M4戦車との対決を回避したことは最大の賞賛に値する。

戦陣訓、作戦要務令は負け戦ではなんの役にもたたず、自分が生き残れたのもファーブル昆虫記、シートン動物記からの生物学的知識を身につけていたためと述べている。部下を思い、人命を大切にし、深い教養から常に平常心を保ち、適切な判断を下せる著者に真のリーダーをみる思いがする。

事故や災害の状況を正確に記録することはそれらの予防や対応に貴重な情報となる(柳田 邦男『死角 巨大事故の現場』1985)。戦争はその最たるものであり相手があり複雑な要因が絡みあっているが、戦争にもあてはまるものと考える。

戦争とは、人間とは何か。極限状態でのさまざまな人間の側面があぶり出される。著者は述べている、飢餓は突如として何百万年前の人類の本能をよみがえらせる。荀子の「人の性は悪なりその善なるは偽なり」の性悪説は負け戦ではうなずけると。人間が人間らしくあるためには平和でなければならない。しかし、一方戦争で利益を得るわずかな人がいることも事実であり、有史以来、地上から戦争の絶えないこともまた事実であろう(広瀬 隆:『クラウゼヴィッツの暗号文』1984)。

 

最後に、本著の捕虜生活の章から一部抄出する。収容所の生活が平穏になってくると、なぜ我々は戦わずしてこんな惨めな敗戦になったのか考えざるをえなかった。1 米軍は兵の命を大切にし、日本軍は粗末にした。2 その結果精兵が少なくなった。3 日露の戦勝以来、国民が軍の専横を許すようになり、軍の首脳部におごりが生じ独りよがりの者が出るようになった。4 軍一辺倒になった当然の結果として国は科学の研究に冷淡そのものとなった。5 精神面のみを重視し物質面を軽んじた結果銃剣至上主義に陥った。6 熱しやすく冷めやすい国民性。精神面のもろさから負け戦では逃げ回る弱兵に変じてしまう。7 首脳陣に個々の修養をしていないものが多く、負け戦になったとき適切な対応ができなかった。

これらは、一部字句を入れ替えると現在の社会にも当てはまるものが多く、現在の日本社会への警鐘となっている。

 

2009_03.jpg

『一つの小石』

著者 高橋 正仁
出版社 新潟日報事業社出版部
昭和58年刊

戻る