伊藤 久彰
元、日立製作所社長や会長、そして経団連副会長を勤められた、庄山悦彦氏が亡くなられた。彼は私が新潟県立高田高等学校の2年生の時に同じクラスであった。彼の性格はおとなしく、決して他人を押しのけて前に出るようなことはなく、しかし、自分の意見はしっかりと述べられたと思う。それが後に日立製作所の社長になられても、攻めの経営ではなく守りの経営になったのではなかったかと思われる。
高田高校では当時は制服であったが、戦後間もなくでもあり、生徒はそれぞれ親御さんが工夫された服を着て通学していた。私も鉄道員の叔父が着ていた紺色の服を母が黒く染めてくれて、それを着ていたし、庄山君の学生服も今それを表現はしないが、何か他人と違う洋服で、鮮明にそれを思い出す。庄山君のお父様は戦死されて、お母様が保育士として子供達を育てられたと聞いた。当時は父親が戦死した子供達も多かった。
高校3年になると私は転校したので、彼と会う機会は無くなったが、彼は高校卒業後は東京工業大学に進まれ、大学卒業後は日立製作所に入社された。日立製作所では良き先輩に恵まれ順調に偉くなられた。上越市には時々講演を頼まれて来ておられたようである。私が気付いたのは、テレビの『世界ふしぎ発見』という番組でコマーシャルタイムに彼が日立製作所の社長として出ていた時であった。そのころは会社も良き時代で、しかし次第に会社も厳しい時代を迎えて、彼は会長となり、現場を離れ、今年亡くなられたと新聞記事にあった。新潟県は関東圏に住む人達からすると僻地のように思われるかもしれない。しかし、私が高田高校生であった時の校長は皇后雅子様の祖父、小和田毅夫先生であった。庄山君も故郷に光を当ててくれた一人であったと私は思っている。ご冥福を祈る。
(令和2年10月号)