蒲原 宏
戦後75年医療以外の研究として世界整形外科学史、日本整形外科前史、新潟大学医学部前史及び医学部史、新潟県医学史、新潟県助産婦看護婦保健婦史、新潟県洋学史などの調査と資料の発見、蒐集、執筆をこなしてきた。
退職後は県民俗学、新潟県俳諧史の調査と近代俳句史年表の編集を手がけ、まさに万巻の資料の中で30余年を過ごしてきた。令和2年11月腰椎前方すべり症による両坐骨神経麻痺で入院手術を受けた。入院にあたり書斎の書籍、文献、執筆中の机辺のものには一切手を触れぬように家内に厳命しておいた。しかし、退院、帰宅してみると書斎は整然と片付けられ、ベッドがしつらえられていた。主治医、ケースワーカー、ケアマネージャー、理学療法士、孫等が私の全く知らぬところで合議して、退院後、仕事し易い様にと善意に計らっての処理であった。
家内は軽い認知症ということで私の入院前の厳命は守られなかった。書きかけの原稿、資料は何処へどうされたのか、まとめた原稿も全く所在が不明、資料としてお借りした物も、うず高く箱づめされ、私の脳のソフトウェアーと書斎の書架のソフトウェアーが全く消えてしまった。善意で整理してくれたことが書斎の旧秩序を全く破壊してしまい、私の脳の資料所在ソフトウェアーは目茶苦茶になってしまったのである。
退院後、少しずつ復旧しつつあったが、家内の入院手術で一人住まいの私は糖尿病の食事コントロールがうまくゆかず急性腎不全と心不全でまた入院。本年2月寛解して退院したら、旧居の借りマンションには帰れず、寺にも部屋がないとのことで徒手空挙のケアハウス送りの直行となった。
書斎のまさに万巻の史料は忰と孫が実家の寺には不用の物だからと業者を呼んで処分に取りかかっていた。忰、孫にすれば紙屑に見える数百冊の取材ノート、海外収集の史料、作製スライド、写真、未刊の翻訳原稿はゴミ屑にしか見えない。1日ではあるが有志の方に手伝ってもらい若干のものはとどめることができたが、その他の私にとって重要なもの、お借りしていた資料、新大医学部史、県洋学史上の貴重と思われるもの、新潟県俳諧史の様々な、明治、大正、昭和初期の文献と原稿は一塊の塵となった。
あと2ケ月の余裕があれば然るべき所に残せたのであるが、忰と孫にとっては私共老夫婦の処理と共に急いだのである。
不肖の子孫を持った不運はどう仕様もない。かくして文化というものは消滅してゆくのである。託してくれた故人、学友に申訳ないことである。研究のためにマンションを買っておけばと悔やんでいる。後の祭であるが臍を噬む思いである。
万巻の書を失いし二月尽 ひろし
(令和4年4月号)