佐々木 壽英
マーラーの「さすらう若人の歌」を聴いたのは1960年(昭和35年)である。当時、シューベルトの歌曲集「冬の旅」の名盤が発売された。バリトンのフィッシャー・ディスカウ、ピアノ伴奏ジェラルド・ムーアによる2枚組のLPであった。2枚目にフルトヴェングラー指揮、フィッシャー・ディスカウの「さすらう若人の歌」が入っていた。「冬の旅」と一緒にこの「さすらう若人の歌」も聴いていた。マーラーという音楽家のことは全く知らなかった時期のことである。
この「さすらう若人の歌」は23歳の時に作詞・作曲された歌曲である。マーラーはドイツのカッセル歌劇場の副指揮者であった。その劇場の歌手ヨハンナ・リヒターの変心により受けた痛手の中で、いくつかの詩が綴られ、その中の4編を選んで、1885年1月、24歳の時に歌曲集として編纂された。
何度も何度も聴いてきたので、今でも時々原語で歌っている。「さすらう若人の歌」でマーラーの魅力に取りつかれてしまった。
古町の「名曲堂」で次に求めたのが交響曲第1番「巨人」で、ブルーノ・ワルター指揮によるものであった。この交響曲には「さすらう若人の歌」の旋律がいくつも使われている。
マーラーが「亡き子をしのぶ歌」を作曲したのは1904年である。しかし、その3年後の1907年に、マーラーは4歳8か月の長女マリア・アンナを猩紅熱とジフテリアの合併症で実際に亡くしてしまった。
その「亡き子をしのぶ歌」や「子供の不思議な角笛」もレコードで聴いてきた。
定年後、合唱の大曲を歌う中で、マーラーの交響曲を歌う機会に恵まれた。2004年に中越地震が発生し、山古志を中心に甚大な被害が出た。東京交響楽団は2008年の第49回新潟定期演奏会プログラムに、中越地震の復興を祈念してマーラーの交響曲第2番「復活」をのせた。東京交響楽団は2003年にもこの「復活」を演奏していた。その後、2010年に新潟メモリアルオーケストラと、2017年の新潟交響楽団第100回記念演奏会でもこの「復活」は演奏された。私はこれら4回の「復活」でテノールパートを歌った。
マーラーの第8番「千人の交響曲」は2001年の東京交響楽団新潟公演で歌うことになり、練習が始まった。大編成の大曲で、テノールは4部門に分かれていた。新潟の東響コーラスのテノールは5人であった。東京の東響コーラスからテノールとバスの助っ人に入ってもらうことで、何とかこの大曲を演奏する目途がついた。新潟公演の前日、東京交響楽団の東京公演に新潟からテノールとバスの参加が実現し、サントリーホールで「千人の交響曲」を歌う幸運に恵まれた。この時のソプラノソリストは、SopⅠ-佐藤しのぶ、SopⅢ-森麻季であった。翌日の新潟公演でも勿論歌った。
グスタフ・マーラー(Gustav・Mahler)は1860年にボヘミアで生まれたユダヤ人である。主に、ウィーンを中心に作曲や指揮者として活躍していたが、ウィーンのジャーナリズムから反ユダヤ主義に基づく反マーラーキャンペーンが始まり、長女の死、心疾患の発覚など苦境の中でウィーンを離れることを決意した。1907年12月にニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招かれ、渡米した。
この頃、溶血性連鎖球菌による亜急性心内膜炎と診断された。マーラーはウィーンに戻って死ぬこと、長女と同じ墓地に葬られることを望んで、ニューヨークを発った。パリのパストゥール研究所で心内膜炎の診断を再確認して、ウィーンに向かった。
マーラーを乗せた列車がドイツに入るやいなやマーラーをウィーンから追い出した記者達が停車する駅ごとに詰めかけたという。マーラーが「ウィーンで死ぬために帰ってきた」ことにウィーン市民が感激し、ウィーン郊外の療養所は廊下も病室も花また花で埋め尽くされたそうである。1908年にウィーンに戻り「大地の歌」を仕上げた。
マーラーは1911年5月18日、50歳で亡くなり、長女アンナと同じグリンツイング墓地に葬られた。ペニシリンの発見は18年後の1928年である。
私が交響曲「大地の歌」を購入したのは1961年(昭和36年)、医学部6年の時で、交響曲第一番「巨人」に次ぐ3枚目であった。この「大地の歌」もブルーノ・ワルター指揮によるものであった。
「大地の歌」は中国の詩人達の詩による6曲で構成され、東洋的耽美的な諦観が歌いこまれている。
マーラーは医師に告げられた心臓疾患による死の予感によって、深い鬱屈と孤独の中に沈んでいた。そんな時期に、ハンス・べトゲ訳による古い漢詩集「支那の笛」を手にすることとなる。ここに盛られた東洋的厭世思想にいたく共感を覚えて作曲を思い立ったという。最後の第6曲「告別」はキャスリン・フェリアーのコントラアルト独唱で、Ewig…(永遠に)という句を7回も繰り返しながら、後ろ髪をひかれるような名残惜しさの中に消えて行く。
私は定年後、風景写真を撮影してきた。小千谷市池ケ原で2010年2月、雪原の杉の森に朝日が差し込んだ写真を撮影した。
指導を受けていた写真家の羽賀康夫先生は音楽にも精通しておられ、この作品を見て「マーラーの大地の歌だね」と言われた。即座に、「それ、頂きます」と云って題名を「大地の歌」として県展に応募して、入選した。
マーラーの死後、ナチスドイツの台頭により反ユダヤに傾き、ユダヤ人であったマーラーの作品は全く演奏されなくなった。
最近、池田香代子女史の「夜と霧」新翻訳本を読んでみた。恥ずかしながら「夜と霧」は読んだことがなかった。しかし、この新訳は読みやすいが何となく物足りなく感じた。そこで、原作者であるヴィクトール・E・フランクルの原本を1956年に霜山徳爾氏が翻訳した「夜と霧」を買ってきた。臨床心理学者の目線での翻訳であり、出版社の意向による解説やアウシュヴィッツの図版も多く、格調高いものである。
フランクルはアウシュヴィッツからの生還者で精神科の医師である。このフランクルと親交のあった霜山氏は、彼に招かれて、ウィーン郊外の有名な旗亭アントン・カラスでワインを傾けながら語り合った。霜山氏は回想している。
『帰途、音楽の話題になり、彼は自分の好きな音楽の一つとしてグスタフ・マーラーの「大地の歌」をあげた。それは私もきわめて好んでいる曲であった。偶然の一致を喜んだ彼と私は一緒に歌うことになった。最初の一章「大地の哀愁にそそぐ酒の歌」であった。各節に「生も昏し、死も暗く」という哀しく美しい旋律のリフレインがついている。それを共に歌いながら帰ってきたのだが、彼の世界観の深い底にある哀しさを示しているかのようであった』
マーラーは1902年、妻アルマに宛てた手紙の中で「僕の時代が来るだろう」と書いている。その約60年後、マーラー生誕100年の1960年にバーンスタインによるマーラーの全曲演奏が録音された。これが切っ掛けで、世界的なマーラーブームが起こった。日本では1980年頃マーラーブームが起こっている。私は日本ブームの20年前からマーラーに魅了されていたことになる。
グスタフ・マーラー
「大地の歌」 県展2010年 入選
(令和6年11月号)