佐々木 壽英
11月のある晴れた日、荒波がおさまった新潟の砂浜を散策していたとき、打ち寄せられた貝に混じって小さな桜貝を発見した。桜貝の時期は11月から3月頃までで、満潮時でなく、干潮時の方が発見しやすいといわれている。桜貝は薄くて壊れやすい。薄いピンク色をした完全な二枚貝を見つけることができれば幸運である。
「麗しき桜貝ひとつ、去り行ける 君に捧げむ」
「桜貝の歌」の歌いだしである。1939年(昭和14年)、土屋花情作詞、八州秀章作曲として発表された。その後、この曲が山田耕筰の目に留まり、編曲されて1949年NHK「ラジオ歌謡」で放送され、人気を博した。ピアノによる素晴らしい前奏も歌詞の旋律も気品があり、美しい。最後の2行の旋律も素晴らしい。この別れがどのような別れであったか知りたいと思っていた。
八州秀章は作曲家鈴木義光のペンネームである。義光は北海道虻田郡真狩村出身、農家の生まれ、17歳の時に農耕馬の事故で重傷を負った。農業や兵役への道を断たれたほどの後遺症が脚に残った。病床でベートーヴェンの生涯に関する書籍を読んだことが、新たに音楽家を志すきっかけとなった。
小学校の先生に音楽を学んだだけで、独学で作曲を勉強していた。NHK札幌放送局の新人オーディション声楽部門に参加して注目された。
当時、義光はある少女に思いを抱いていたが、その気持ちを伝えることもなく、作曲家を目指して昭和11年に21歳で上京した。そして、山田耕筰に師事した。
昭和12年、同人誌「詩と歌謡」に投稿した「漂白の歌」が採用され、東海林太郎の独唱でレコード化された。
しかし、義光は肺結核にり患し、療養生活を余儀なくされていた。そんな折、故郷から義光の初恋の人・横山八重子が同じ肺結核で重体であるとの知らせが届いた。昭和13年、作曲と結核で疲れ果てていた義光の枕元に、故郷にいるべき八重子が立っていた。このことで、18歳の八重子が亡くなったことを確信した。そんな時、義光は療養していた逗子の浜辺で桜貝の一片を拾った。
「わが恋のごとく悲しや桜貝
片ひらのみのさみしくありて」
と義光は短歌に詠み、この歌を持って公務員で友人であった土屋花情に作詞を依頼した。その土屋花情の歌詞に、義光自身が曲を付けたのがこの「桜貝の歌」である。
養生のために帰郷した義光は、真北に羊蹄山を望む八重子の墓の前に立ち、後悔の念で一杯であったという。
鈴木義光は、八重子の「八」と戒名の一字「秀」の字をとって、八州秀章(ヤシマ ヒデアキ)というペンネームで昭和15年に伊藤久雄の「高原の旅愁」で復帰した。その後、「あざみの歌」、「山のけむり」、「毬藻の歌」などの名曲を残していく。
私は「桜貝の歌」を倍賞千恵子などの歌で聴いてきた。この度、この曲について調べながら岡本敦郎で聴いてみた。この桜貝の歌には義光の想いが詰まっており、矢張り男声で歌うべき歌であると思った。そして、作曲にまつわる逸話を知って、益々この「桜貝の歌」が好きになった。
新潟海岸の桜貝
(令和6年12月号)