佐々木 壽英
書棚で見つけた古い『癌の臨床』第45巻9号の中に市川先生の手紙が挟まっていた。
「拝啓 いよいよ夏らしくなって来ました。先日お話してご了解を得ました先生の作られた図表がこんな形で「癌の臨床」に掲載されました。何卒御笑覧下さい。もっといいたいことはあったのですが、この程度でお赦し下さい。
益々のご健闘を祈念いたしております。
まずは御礼迄草々
平成11年7月26日 市川平三郎」
市川先生は胃X線二重造影法の開発者で胃がんの早期発見に貢献し、1998年に日本癌学会から第3回長與又郎賞を受賞され、その受賞記念論文「早期胃癌をめぐって」が掲載されていた。
私は胃がん死亡率減少に対する早期胃がん効果の研究で、この2年前の1996年に日本消化器集団検診学会で有賀記念学会賞を受賞していた。それで、この学会の重鎮であった市川先生から資料の提供を依頼されていた。市川先生はその論文の中で私の研究を4枚の図表を掲載しながら長々と解説して下さった。
「新潟県の県立がんセンターの佐々木壽英先生が、綿密な調査をしています。たとえば死亡数は減っているけれども大して減っていなかった。しかし、手術数はどんどん増えていった(図31)。それから県内の外科が共同して、県内で手術した症例を調べた。図32で見られるように、昭和25年から新潟県で胃癌の死亡数はどんどん増えていった。ところが、ある時突然下がりはじめた。それは、昭和40年と45年の間であった。この頃というのは、二重造影と内視鏡が日本中に広がった年である。新潟県などは真っ先にそれを始めた県の一つだから、それを始めると急に死亡数が減りはじめた。
図33のように、新潟県では全体の年齢調整胃癌死亡率がどんどん下がっている。
一方、昭和47年から早期胃がん率、手術した癌のなかの早期胃癌のパーセントが、どんどん増えていって、年齢調整早期胃がん率の上昇と死亡率下降とが逆比例することがわかった。この2つの曲線を6年くらいずらしてひっくり返してみると、図34のように逆比例している様子がよくわかる。すなわち早期胃癌がたくさん見つかれば見つかるほど、死亡率は減少しているという非常にきれいなデータがでている。」
私が「胃がん死亡率減少に対する早期胃がん効果」の研究を始める切っ掛けとなったのは、赤井貞彦先生の一言からであった。
昭和46年(1971年)に、ハバロフスクの医療使節団が新潟を訪れた。イタリア軒での歓迎昼食会で、新潟県立がんセンター内科の原義雄先生が「がんセンターでは早期胃がんを200例発見した」と自慢した。すると、ハバロフスクの外科教授が「それでは、新潟県全体では何例の早期胃がんを発見しているか」と質問してきた。しかし、それに答えられる人はいなかった。それを聞いていた赤井貞彦先生は、これからは一つの病院単位ではなく県全体で物を考えていかなければならないと考えた様である。
新潟がんセンターの昼休みに医局で雑談をしていた時、赤井先生が「外科医は精力的に胃がんの手術を行って、その何パーセントかは確実に治癒させている。この努力が本当に胃がん死亡率の減少に役立っているのだろうか。県下の胃癌手術例全例を調査出来たら、この問題を解決する糸口が掴めるかもしれないね」と言われた。軽い気持ちで、「それは大変重要なことですね」などと適当に相槌をうってしまった。すかさず、赤井先生は「君、この調査をやってくれないか」と言われた。胃がん手術を専門としていた関係もあって「分かりました」と言わざるを得ませんでした。
多分、老獪な先生のことですから、前夜から考えてきた筋書き通りにことは運んだなとホクソ笑んだことだろう。先生の口車に上手く乗せられてしまったなと感じたが、時すでに遅く、後の祭りであった。それからが大変であった。
県内の病院に外科医を派遣している新潟大学の武藤輝一外科教授には赤井先生から説明してもらって、承諾を得ることが出来た。そして、調査内容の検討に入り、①県内で胃がん手術を行っている可能性のある全ての施設を対象とすること、②早期胃癌だけでなく、全ての胃がん手術例について氏名・年齢・性・手術年月日・早期胃癌か否か・現住所の7項目だけを記載報告してもらうこと、とした。100%の報告を目指して、調査項目は最小限の7項目に絞った。
当時、県内の病院には、新潟大学以外の大学から派遣された外科医が実権を握っている病院があった。また、事前アンケートで協力しないと回答された施設も数施設あり、これらの医療施設へは、直接訪問して外科医に調査の目的を説明して回った。その結果、県内の全ての関連医療施設から協力が得られた。昭和47年(1972年)に調査を開始した。それから平成2年(1990年)までの19年間に30,581例の報告が得られた。この調査に協力頂いた医療機関は、県内(115)はもとより県外の外科医出張病院(5)や国立がんセンターの全国胃がん登録室(18)から、県成人病予防協会から胃集検手術を行った県外施設(26)など合計164医療機関に及んだ。
この当時は、全ての早期胃がんが外科で手術を行われていた時期であった。
この約3万例の手術例の分析結果を昭和60年(1985年)に243頁の『新潟県の胃癌』を赤井貞彦先生との共著として1,000部発行し、協力頂いた各関連医療施設等に配布した。
その後、赤井先生はステージⅣの胃癌となり、手術を受けたが、残念ながら非治癒切除に終わった。臨終の床についていた赤井先生は、私に向かって「胃がん検診の総合的評価をするように」と遺言されて旅立たれた。
当時、早期胃がんの症例数は上昇し、胃がん死亡率は確実に減少していた。この手術例登録による早期胃がん率の上昇と胃がん死亡率減少の関係から、胃がん死亡率減少に及ぼす検診等による早期発見効果を証明して発表してきた。
その後、この研究の最終結論となる「胃がん検診の総合的評価」を完成させて、平成5年(1993年)に『続 新潟県の胃癌』248頁を発行した。出版費用は著者が私一人になったため、新潟県医師会平成4年度学術奨励賞「新潟県における胃癌二次予防の評価、特に胃集検の疫学的評価について」の受賞賞金100万円をあてた。
「胃がん検診の総合的評価」の最終的な結論として、「新潟県の胃がん死亡率減少に対する検診早期がん効果は18.1%、臨床で発見された早期がん効果は44.6%である」とした。
県全体の胃がん手術例調査により、早期発見効果を直接法で証明し、恩師赤井先生との約束を25年後に果たすことができたと思っている。
これらの研究成果により、平成8年(1996)5月24日の第34回日本消化器集団検診学会総会で第14回有賀記念学会賞を受賞した。受賞研究は「胃がん検診の総合的評価、特に最終目的に対する評価」であった。
有賀賞の有賀槐三先生は、昭和31年(1956年)に日本大学第三内科の教授として全国に先駆けて長野県下伊那郡で胃がん集団検診を行った。
その検診結果は、私の郷里大下条村を含む10ヶ村で3,000例の集検を行い、胃がん発見率は0.5%と高率であった。
有賀検診班が使用したレントゲン機械は大下条村の県立阿南病院のものであった。当時この検診に参加した阿南病院の放射線技師は「検診班は阿南病院のレントゲンをトラックに積み込んで、村々を回りながら検診を行った」と私に語ってくれた。
昭和20年(1945年)に千葉医科大学附属医学専門部の戦時疎開を村長が拒否したため、下伊那郡地方厚生課長は前村長であった私の父忠綱に直接依頼してきた。父はそれを受けて、村議会に上程審議し、昭和20年の4月に千葉医科大学付属医学専門部の疎開が実現した。私の実家にも5人の医学生が宿泊していた。戦後、千葉医科大学が長野県へ働きかけて設立されたのが長野県立阿南病院である。
有賀槐三教授が私の郷里で胃がん集団検診を行った昭和31年(1956年)に、私は新潟大学医学部に入学した。そして、胃癌外科を専攻し、胃がん検診に携わり、胃集検の効果について研究してきた。その私が有賀記念学会賞を受賞したことに何か因縁めいたものを感じている。
時が過ぎ、今や早期胃がんの多くは、内科の内視鏡医が粘膜切除EMRや粘膜下剥離術ESDを駆使して内視鏡的に切除する疾患となった。早期胃がんをより早い時期に発見すれば、発見者自身が内視鏡を使って根治的切除が可能な時代となった。隔世の感がある。
特に、新潟市医師会は開業医との連携のもとに、胃がんの内視鏡的検診を広く行ない、素晴らしい成果を上げている。
今後は、若年者ピロリ菌感染の激減とX線検診での慢性胃炎診断能向上による内視鏡検査の増加で早期がん発見率が上がり、胃がん死亡率が劇的に減少する日が遠からず来るものと期待している。