浅井 忍
歯科クリニックで歯周病のケアを月に1回のペースで、およそ20年間行ってもらっている。ケアの開始以来、歯の状態は低空飛行ながらそれなりに維持されていて、担当の歯科衛生士には全幅の信頼をおいている。超音波の刺激が痛過ぎず、吸引やうがいのタイングが的確なのだ。今日は仮歯を入れることになっている。
今、私は川上未映子が小説『わたくし率 イン 歯―、または世界』(講談社文庫 2007年)のなかで、「巨大な舌」と表現している治療用ベッドの上に寝かされている。ベッドの角は丸くなっていて、まさに巨大な舌のようだ。目にはタオルがかけられているので、歯科衛生士の行動を音と気配で推測している。そうこうしているうちに、仮歯が転がる情けない音がした。歯科衛生士は無言で立ち上がり、蛇口から勢いよく出る水で仮歯を洗った。そして何事もなかったかのように着席し、再びグラインダーを操った。そっと首をのけ反らせてタオルの隙間から覗くと、左手に仮歯を持ち右手のグラインダーで削っている。仮歯が床に落下しないようにエプロンか何かで対策を講じていると思いきや、何もしていなかった。
歯科衛生士が何事もなかったかのように振る舞っていたのは、はじめのうちだけだった。次第に作業が雑になったような気配がした。引き出しを開ける音やグラインダーを作業台に置く音が、少し大きくなったような気がした。普段は聞くことのない独り言を口にしたようだった。
左上奥に仮歯が入り、咬合紙が入れられて「カチカチ噛んでください。横に歯軋りしてください」と言われた。そのようにすること4~5回ののち、「どうですか噛み合わせは?」と訊かれて「問題ありません」と答えた。料金はたったの120円だった。
仮歯は床に転がったが、歯科衛生士に対する信頼はその後もゆるぎない。