佐々木 壽英
奥日光の小田代ヶ原湿原に一本の白樺の木が立っている。標高1500メートルのこの地に、1981年(昭和56年)から6年間、東京から移住して逗留したカメラマンがいた。その写真家宮嶋康彦氏は、「この一本の白樺の木に毎日出会い、雨の日も雪の日も向き合い、なにがしかの平安を持ち帰ることができた。あらゆる角度から眺めた。遊歩道にしゃがんで一日そこで過ごす日もあった」と当時を振り返っている。
これほどまでに想われ続けた白樺は幸せ者である。宮嶋氏は2006年発行の著書『脱「風景写真」宣言』の中に、1986年6月撮影の白樺の木を載せている。それが写真1である。
宮嶋氏は、一つのものに執着して撮りつづけることは、自分の深奥を探ることにもつながると書いている。
2002年にデジタル一眼レフカメラが市販され、多くのアマチュアカメラマンが風景写真を撮り始めた。奥日光は観光目的で、この白樺の木を「貴婦人」と命名した。すると、この貴婦人を撮影するために、カメラマンが自家用車で小田代ヶ原へ乗り入れるようになってきた。
その結果、自然保護のため林道への車の乗り入れが規制され、電気バスとハイブリッドバスが運行されることになった。
私も宮嶋氏の著書で貴婦人の存在を知ってから、奥日光へ何回も通って貴婦人を撮影してきた。早朝のバスに乗って小田代ヶ原へ向かうと、その遊歩道には徒歩や自転車で入った多くのカメラマンが三脚を立てて撮影していた。
宮嶋氏が著書に載せた写真と同じ写真を撮るには、遊歩道の撮影場所が限定されてくる。
宮嶋氏と同じ方向から撮影したのが写真2で、これが貴婦人の正面像である。
写真1から20数年が経過した貴婦人を見ると、少し成長しており一層貴婦人としての風格が備わってきているように見える。
数年に一度の長雨の後、貴婦人の前の湿原に幻の湖が出現する。私は、その広い水面へ映り込んだ貴婦人の姿を撮影する幸運にも恵まれた(写真3)。
写真集『私の奥日光』の中に、この貴婦人の写真を13枚載せている。
奥日光は風景写真撮影の宝庫である。
トウゴクミツバツツジ咲く竜頭の滝、イワツバメ飛ぶ華厳の滝、中禅寺湖千手浜のクリンソウ群生、ツツジ咲く霧の戦場ヶ原など数えきれないほどの撮影ポイントがあり、私はこれらを撮影してきた。
あれから更に17年の年月が過ぎ去った。もう一度貴婦人を撮影したいと思うが、叶わぬ夢となりそうである。
(令和7年9月号)
写真1 宮嶋康彦氏撮影の貴婦人
写真2 貴婦人
2008年10月27日撮影
写真3 幻の湖への映り込み
2011年11月21日撮影