勝井 豊
この映画は津軽三味線をブームにした初代高橋竹山の後半生のドキュメンタリーである。彼は青森県平内町で4人兄弟の末っ子として、明治43年6月18日に生まれているが、2歳のときに麻疹にかかり視力をほぼ失ってしまう。14歳で隣村のボサマ(門付け芸人)の住み込み弟子となり三味線と唄を習い、16歳で独立して北海道、秋田、岩手の各県を門付けでまわり、28歳のときにイタコの女性と結婚。昭和19年には太平洋戦争が激化して三味線では生活できなくなり、鍼灸師の資格を得るために八戸盲唖学校に入学している。昭和25年、40歳のときに民謡歌手成田雲行の伴奏者になり、「竹山」の号を名乗った。その4年後にラジオに出演し、53歳になってレコードを発表、63歳で青森放送のドキュメンタリー映画に出演、65歳のときに『自伝津軽三味線ひとり旅』を出版し、2年後に映画化されてモスクワ国際映画祭に出品された際に、初の海外演奏を行っている。平成5年に妻が死去し、その4年後には、高橋竹与が「二代目高橋竹山」を襲名した。翌年の平成10年2月5日に彼は喉頭癌のために87歳で永眠している。
竹山が独立した昭和の初期に門付け芸人はボサマと呼ばれて、オイド(乞食)とほぼ同じにみなされるほどに身分が低かったそうである。北海道で餓死寸前になり善意の人に救われたエピソードもあり、常に差別される側にいたにもかかわらず、支えてくれた人や聴いてくれるお客さんに感謝する心を持ち続けたとのことである。昭和49年64歳のときに小劇場「渋谷ジャン・ジャン」でライブを行うようになって人気に火がつき、73歳で勲四等瑞宝章を受けている。そして晩年においても自宅近くの温泉施設で三味線を弾いていたそうである。
カマリとは津軽の方言でにおいのことを意味するが、竹山の三味線を生み出した津軽の自然と人々の暮らしを映画は丹念に描いている。三陸沖地震では被災地にいて九死に一生を得ているが、竹山がその地を再び訪問する様子や、二代目竹山が後継者としての評価が得られないで苦悩する姿などを率直に伝えている。
数多くいたボサマの中でなぜ竹山だけが世界へ羽ばたくアーティストへ変貌していったのか?この問いに答えるために大西監督は資料を掘り起こし、取材を重ねながらこの映画を制作したとのことである。ライブでは津軽弁丸出しのユーモラスなトークで観客を笑わせていたそうだが、日々の糧を得るために三味線を弾いていた若き日の竹山が、一期一会の出会いをきっかけにして世界的なアーティストになってからも、津軽のカマリを大切にしていたことが人々の心を捉えて、彼の芸術と人間性をより魅力的なものにしているのではないだろうか。
2018年製作 モノクロ・カラー 104分
監督・製作・撮影・編集 大西功一
企画・製作 大西功一映像事務所
(平成31年3月号)