永井 明彦
一昨年の11月の「私の憩いのひととき」欄で、夏目漱石の『草枕』を伝説のピアニスト、グレン・グールドが聖書と同じように愛読していたことに触れて、彼が弾くモーツァルトのピアノソナタ全集は愛聴盤の一つだと書きました。グールドはバッハが作曲したクラヴィーアのための練習曲『ゴルトベルク変奏曲』を1955年にCBSソニーから発表して、センセーショナルなデビューを飾りました。当時、ピアノで弾かれることが少なく、演奏に高度な技術を要求される「前代未聞の壮大な構築物」のようなこの曲にグールドは光を当て、デビュー盤はバッハ演奏の常識を大きく覆す革新的な演奏となりました。この演奏が世に出た1956年にデビューしたのがエルヴィス・プレスリーで、グールドはクラシック畑以外の人々の好奇心も刺激的に掻き立てました。アルゼンチンタンゴの巨匠、アストル・ピアソラが生前のインタビューで「無人島にレコードを一枚持って行くとしたら」という定番の質問に、グールドの弾く『ゴルトベルク変奏曲』と答えたという有名な話もあります。グールドはジャズのマイルス・デイヴィス、ロックのプレスリーやジョン・レノンに比すべき時代のヒーローと言えます。
『ゴルトベルク変奏曲』は不眠症に悩むカイザーリンク伯爵のためにバッハが作曲し、ポーランド北部のダンツィヒ出身で伯爵の若いお抱えピアニストであるゴルトベルクに弾かせたというのでこの名がありますが、とても睡眠薬になるとは思えない目が覚めるような音楽です。実際、伯爵は眠れぬ夜に気分が晴れるような穏やかで快活なクラヴィーア曲の作曲を依頼したと言われ、当のグールドもこの曲を子守歌として成功したとは思わないと言っています。
グールドは『ゴルトベルク変奏曲』を2回、録音しています。最初の55年のモノラル盤ではスタインウェイを弾いていますが、1981年の2回目のデジタル録音(写真1)は、ヤマハのピアノで演奏しています。慣れ親しんだ愛機のスタインウェイCD318が修理不能なほど壊れてしまったので、NYのヤマハのショールームに行き中古のコンサートピアノCF-Ⅱを偶然見つけて気に入り、「ヤマハピアノのアクションは世界一だ。これほど自分の意図通りに弾けたことはない」と言って2回目の録音に用いたそうです。55年盤は演奏時間が38分と短く、ノンレガート奏法の軽快で心地よい演奏で、作曲家の諸井誠は「若い才気の飛翔」と評しました。グールドファンの村上春樹も55年盤の方が好きだと書いていますが、表現はやや淡泊で深みに欠け、軽いノリで走り抜けるような演奏です。81年盤は演奏時間が51分と長いのですが、クリアなデジタル録音で、グールドの鼻歌(ハミング)もはっきり聞き取れ、メリハリの効いた深遠で精緻な演奏です。発売当時に諸井誠は「旧録音を遙かに凌駕する世紀の名演。賢者の深慮に基づく確固たる造型と技巧の勝利」と評し、「あらゆる音に奏者の意識が働いている演奏のマニエリスムの極致」だと絶賛しました。
ピアノ音楽史上に燦然と輝くこの81年盤『ゴルトベルク変奏曲』は、人類の箱船に載せられる録音の最右翼に列せられるべき「天上の音楽」とも言えます。1977年に打ち上げられたNASAの無人探査機、ボイジャー2号にこのグールドのディスクが搭載されたと聞き、然もありなんと思いましたが、後にそれはゴルトベルクでなく『平均律クラヴィーア曲集第2巻・前奏曲とフーガ第1番』の間違いだと判って、大いなる勘違いにガックリしたことがあります。実際にあの美しく深遠な冒頭のアリアを大音量で流して宇宙空間を悠然と飛んでいくボイジャーの勇姿を、世界中で多くの人が思い浮かべたに違いありません。
さて、その『ゴルトベルク変奏曲』を効果的に使った映画が、1991年公開のサイコスリラー『羊たちの沈黙』(ジョナサン・デミ監督)です。先日、出版不況で閉店する間際の書店のDVDコーナーで偶然「特別編」(写真2)を見つけて早速購入し、久しぶりにこのホラー映画を堪能しました。連続猟奇殺人事件を追う女性FBI訓練生、ジョデイ・フォスター演ずるクラリスと、監禁中の凶悪犯で元精神科医のハンニバル・レクターとの奇妙な交流を映画は描いています。『羊たちの沈黙』は91年のアカデミー賞主要5部門を独占しましたが、レクター博士を怪演しているのはアンソニー・ホプキンスです。彼はカズオ・イシグロ原作の英国映画『日の名残り(91年)』でも、没落した貴族の館の執事役を好演していました。トマス・ハリスの原作では、ゴルトベルク変奏曲がお気に入りのレクター博士が収容された監獄で、愛聴しているグールドの55年盤のテープの差し入れを要求しています。
天才的な洞察力を持つレクター博士は人肉嗜好の殺人鬼ですが、博士が人をあやめる方法は完璧で美しく、ひとつの哲学と言っても過言ではありません。一方、天才肌の奇人で孤高のグールドがピアノの前に座り、二本の長い手指を鍵盤に載せて紡ぎ出す音楽は、世界の終わりにただひとつ遺された楽園のように美しく、すべてが完璧で研ぎ済まされ、一片の曇りもありません。ハンニバル・レクターという強烈なキャラクターを象徴する音楽として、グールドの『ゴルトベルク変奏曲』以上に相応しい音楽は考えられませんね。『羊たちの沈黙』でゴルトベルクを演奏しているのはグールドではありませんでしたが、美しい音色の『ゴルトベルク変奏曲』がゆったりと流れる監獄内で、レクター博士は平然と看守を殺害して奇想天外な方法で脱獄します。比類ない最上の音楽と冷酷な殺人が平行して進行するシーンは永遠に忘れられないものとなりました。
グールドは50歳の誕生日の9日後に脳卒中で世を去り、死の前年の1981年に再録音した『ゴルトベルク変奏曲』は彼の“白鳥の歌”になりました。主題のアリアで始まり、30の変奏を経てダ・カーポのアリアで回帰するこの作品の構造に、グールドの軌跡を重ね合わせ、その象徴的な関係に想いを巡らせる人は多いように思います。そして、『羊たちの沈黙』の原作者、トマス・ハリスもきっとグレン・グールドを愛し、彼の演奏を好むハンニバル・レクターを描き、二人に共通する何かを感じながらこのホラー小説を書き上げたに相違ありません。
写真1
写真2
(令和2年10月号)