加藤 俊幸
たった1枚の絵に会いたくて旅に出かけたことはあるだろうか。
2000年大阪で出会ったフェルメールの5点、中でも「真珠の耳飾りの少女」は衝撃だった。本物は違った。「青いターバンの少女」の別名もあるブルーの輝きと謎めいた眼差しの強さに惹かれた。このブルーのために高価な宝石ラピスラズリの原石を砕いている。2004年には同名の映画にもなった人気の名画である。翌2001年のニューヨークのメトロポリタン美術館では集結した15点に出会える幸運にも恵まれて大好きになった。
フェルメールは43歳で没するまで寡作のうえ、贋作事件など真偽が難しいため34点とも37点ともいわれ、さらに4点が盗難に遭い1点は戻らず、門外不出も多いため世界の全点踏破の本やツアーまである。画中の寓話の謎解きから手紙や壁の絵など何かの意味や意図を深読みする楽しみもある。何点か来日するたびに展覧会にでかけ、あの少女にも会いに東京・神戸と出かけた。
2012年組織解剖学の藤田恒夫教授の葬儀に上京した時、全37点を実物大にリ・クリエイトし年代順に並べた「光の王国展」を訪れた。はじめて顕微鏡を使って微生物を観察した「微生物学の父」レーウェンフックも同じ年、同じ月、同じデルフトに生まれたことを教えていただいた藤田先生を偲びながら、生物学者・福岡伸一氏の「レーウェンフックのスケッチを彼が手伝った仮説」のもととした英国王立協会の書簡の複製を見た。興味深いが、現存する風景画2点が心に残った。「小路」はその後来日したが、残る1点「デルフトの眺望」はハーグのマウリッツハイス美術館所蔵で、2012年からの改修時もハーグを離れず、門外不出。待っていても来ない、その絵を見たかった。
ただ会いたくて、花の季節にオランダへ出かけた。開場前の特別拝観で、「デュルプ博士の解剖学講義」「ごしきひわ」などの名作を見た後に、フェルメールの3点が飾られた部屋で「真珠の耳飾りの少女」と静かに再会する。振り返った少女は一体何をみつめているのか、今までの謎はこの部屋で解けた。少女が見つめる対面の壁には念願の「デルフトの眺望」が掛けてあるのだ。この配置は感動的だ。朝の一瞬の光のなか、雲が流れて青い空がのぞき、市街と運河水面にきらめきが描かれている。火薬庫大爆発から立ち直った故郷に愛情を注いでいる。彼の傑作を実感。ゆっくり堪能して並んで写真も撮れた。
そして翌朝には、「デルフトの眺望」が描かれた7時に間に合うようにデルフトへ向かった。彼の目線になって運河の岸に立ち、朝の漂う光を実感した。360年前と同じ保存された2つの教会と街並みが広がり、朝の雲が流れていた。
彼の死後、妻は破産し残された作品は競売されて散逸したため、故郷には作品が1点も残っていない。しかし、「眺望」を画いた運河や「小路」など名作が描かれたデルフトの街を歩き、旧教会の墓石、赤いレンガの壁、新教会から市庁舎やマルクト広場を眺める。この街を訪れて、彼と同じ空気を吸い同じ空を見上げることができた。思い出に残る旅であった。
たった1枚の絵のために出かける旅があってもいい。
(令和4年7月号)