植木 秀任
以前渋谷の松濤に観世流の能楽堂があった頃、謡(うたい)をやっていた義母のお供で「能」を見に出かけたことがあった。入場前に、義母に「秀任さん、あなた寝るだろうけどイビキはかかないでね」と言われた。私も寝るとは思ったが、流石にイビキはかかないだろう。席に着くと、義母のお仲間も幾人か周りに来ていると聞いた。演目が始まってしばらくするとやはり眠気が襲って来た。ウトウトと眠りにつこうとする私の心にふとある思いが浮かんだ。「もしイビキをかいたら…。義母に恥をかかせられない」そう思うと寝るに寝られなくなった。しかし抑揚のない舞台の展開に容赦なく眠気は襲ってくる。「寝るな、起きろ!」またウトウト。「寝るな!寝ると死ぬぞ!」(死なないけど)まるで寒冷地の遭難者のような心境で、地獄のような時はゆっくりと過ぎて行った。物凄い葛藤が続き、終わった時は疲労困憊でその時の演目など何も覚えていない。
「死ぬほど退屈した」と仏の作家ジャン・コクトーは言った。「『能』の静止は息づいている。死ぬほどの感動である」と仏の俳優ジャン=ルイ・バローは言った。見解の違いはあれ二人のフランス人が期せずして「死ぬほど」という表現を使っているのは、私も死にそうになったからよく理解できる。
しかし、振り返ってみるとあの能楽堂での厳かな空気は何だったのだろうと思い返された。あそこには中世の日本の悠久の時間が流れていた。タイパ(タイムパフォーマンス)などといって、映画や音楽を早送りで見聞きする若い人たちとは真逆の空間である。日が経つごとに自らの無教養への屈辱感が増してくる気がした。あの場の空気感をしっかり味わえる自分になりたい。その後書物や画像などで「能」の世界を覗き始めた。昨年、県立万代島美術館に「刀剣×浮世絵―武者たちの物語」という美術展が来たが、幼い頃本で読んでいた武者ものの説話がいくつか「能」の題材になっていることを知った。「能」は連続公演がなく観客数が少ないので、チケットを取るタイミングをつい逃してしまう。居眠りのことで、まだ気遅れもしている。だから問題は眠気対策である。年のせいか最近の私はついウトウトどころか、突然寝落ちするような居眠りになる。「能」を大成した世阿弥によると「『能』が目指すべき理想の境地は『幽玄』である」という。元々夢うつつの状態を表しているので眠くなっても良いのだ、という説明に出会った。また、横浜能楽堂館長の中村雅之氏の『これで眠くならない!能の名曲60選』という著作(ホントに?)も知った。そろそろ再挑戦が出来そうな気がしてきた。しかし、また、落語で「能」の構成をうまく取り入れた「舟弁慶」という演目を聞いて、愈々興味が深まった。まだ「能」デビューはしていない。
最近、妻が茶道を習い始めて先生から「能」を見ろと言われたという。今度、お仲間と行くから一緒に行かないかと言われた。「お仲間」はダメだ。また地獄になる。
(令和5年3月号)