佐藤 雄一郎
最近、家事がすっかり好きになった。掃除や洗濯も悪くないけれど、いちばん心が落ち着くのは台所だ。包丁を洗い、まな板にトントンとリズムを刻む。鍋の中で湯気が立ちのぼるとき、仕事の緊張や時間の縛りから少しだけ解き放たれる気がする。料理というのは、誰かのために作っているようで、じつは自分を癒やしているのかもしれない。『自炊者になるための26週』という本を読んで、著者・三浦さんの「かぶら寿司」の話に強く惹かれた。能登の郷土料理で、ぶりを塩漬けにし、聖護院かぶらの薄切りで挟み、米と麹に包んで2週間待つ。大いなる手間の向こうに、「ひとつ作ると2か月幸せでいられる」という言葉があった。料理というのは、時間を待つ芸術でもあるのだと思った。火加減や塩加減だけでなく、「待つ」ことで完成する料理。発酵の神秘に耳を澄ます、悠久の時の流れにも似ている。そして、もうひとつ印象に残ったのがトーストの話だった。三浦さんは「もっとしっかり焼いてください」と言う。焦げる寸前まで、パンの水分が蒸気になるのを待つ。割った瞬間にフワッと湯気が立ち上がる、それが本当のトーストの姿だと。焼きたてはすぐに食べる、たったそれだけのことで、朝の風景が少し特別になる。生活の中の小さな音と香りに意識を向けると、日常の解像度が上がるような気がする。ひとり娘が東京にでて6年、2人きりになった妻のために料理をすることが増えた。食べてくれた人の顔がほころぶ瞬間、純粋に嬉しくなる。けれど、三浦さんが言うように、「作る人は、料理ができあがるまでのすべてを知っている」から、いちばんおいしいのは作り手自身だ。買い物のときに見る野菜コーナーの彩、まな板に包丁が当たる音、フライパンの油がはぜる瞬間、肉が焼ける香り。すべてがその皿に積み重なっていく。食卓についたとき、作った僕の心の中で祭りがはじまっている。母もそうだった。家族で食事を始めるとき、必ず最初に「おいしいでしょ?」と言っていた。その理由がようやくわかる。料理は、味だけでなく、それまでのプロセスを味わうことなのだ。手と鼻と耳と目と舌、すべての感覚を使って作りあげた一皿は、誰よりも作った人の五感を満たしている。気づけば、キッチンに立つ時間が、僕にとってのスタジオなのか、まな板の音も、フライパンのリズムも、すべてがひとつの楽曲のように響く。料理は、暮らしの中の即興演奏? 誰かの「おいしい」に背中を押されながら、今日もまたフライパンの中で小さな音楽が鳴っている。─そんな時間を、少しずつ好きになっている自分が、なんだかうれしい。
(令和7年11月号)