佐藤 勇
会員の皆様の中には、学会誌などの査読を担当されている方もいらっしゃると思います。私も年に数回、保育関係の学術論文の査読を依頼されることがあります。昨今、保育士不足が話題になりますが、処遇改善の近道は「保育」という職業が「預かり業務」ではなく、子どもたちの健全な発育に必要な専門職であることをきちんと示し、専門性を高めることだと考えています。保育士の中には、学生時代のカリキュラムの中で論文の書き方を学んでいる人もいますが、多くは保育に関する授業しか受けておらず、自分で文章を書くことに慣れていない人が多数を占めています。そのような投稿者に対して、査読によってブラッシュアップし、よりよい論文の形にしてあげることは、楽しい作業でもあります。
私が研修医の頃、国立循環器病センター初代小児科部長、恩師故神谷哲朗先生は、私の持って行った論文の原稿用紙を真っ赤に添削されて返され、何回持って行っても、書き換えられ、結局元の自分の表現に戻っていたりして恨んだことすらありました。しかし、後から考えてみると、一度として投稿を止められたことはなく、なんとか形にして頂いていたと思うようになりました。研修を終えて大学に戻った時に、後輩が投稿した論文が、査読者から「掲載の価値なし」と、たった一言書かれて返却され、悔しがっていた姿を見たことがありました。査読者は匿名なので、そんなことができるのかもしれません。この時に、上述の経験を思い出し、査読のあり方を改めて考えました。
しかしながらであります。文章のチェックには、「校正」「校閲」「推敲」「査読」などがあり、それぞれ意味合いが微妙に違っています。誤字脱字、文法など表現の間違いを直すことが「校正」、文章の事実確認など正誤を検討することが「校閲」、読みやすい文章にすることが「推敲」と言われています。ここまでがいわゆる「校正作業」であり、会報編集委員会で行っている作業は、この校正作業に他なりません。この「校正作業」には、向き不向きがあると感じています。
編集委員会があるたびに、委員の皆さんの鋭い指摘に驚くことが毎回です。目を皿のようにして(?)細かな誤字脱字を見つけ出す能力(おそらく投稿者も気づかずに直されているかもしれません)、引用論文のスペルまで調べつくす執拗さ(?)、読みやすい表現にしようと、いろいろと議論し、結局「原著尊重」となったときに、時間を費やした無力感などおくびにも出さず、次の作業に移る冷静さ、尊敬に値すると思っています。その一方で、校正をしているのに内容に入り込んでしまい、見落としが多い自分の作業に、やっぱりこの仕事には向かないなと思ってしまいます。
今回、ご寄稿いただいた原稿は、そんな過程を経て掲載されています。
(令和元年11月号)