古町の衰退が止まらない。どんよりとしたシャッター街のオーラがますます強く漂い、通るたびに切ない気持ちになります。皆様の中でも、古町への思い入れが強い方はたくさんおられるのではないでしょうか。
私は実家が東堀にあったため、幼小児期から古町っ子として育ちました。大和と小林百貨店の玩具売り場や古町4番町の日野屋玩具店は私の庭であり、よく1人で遊びに行ったものです。時折、補導員に「お母さんはどこ?」と声をかけられたりしますが、「買い物中」とかわしていました。
70年代末からはスペースインベーダーに端を発したアーケードゲームが流行し、古町にも多くのゲームセンターが開店しました。古町っ子の私が入り浸ったのは言うまでもなく、いくつかのゲームでは当時のハイスコアを樹立していました。その他にも、古町界隈にはイチムラ、長崎屋、緑屋、カミーノといったデパートや商業ビルがたくさんあり、西堀ROSAの中央広場はデートで待ち合わせの若者であふれていました。市役所の跡地にはNEXT21が作られ、バブル感満載のネーミングであるラフォーレ原宿・新潟が併設されましたが、今となってはNEXT21の唐突な高さが痛々しく見えます。
そして医者になった頃はバブル最盛期であり、夜の古町の賑やかさは尋常ではありませんでした。週末の夜ともなると通りは人波であふれ、どの店も常に満員。特に2次会以降の店を調達するのが一苦労で、ネットや携帯電話がない時代だったので、若手は1次会の終盤になると走り回って次の店を確保し、皆様を誘導するというのが定番の光景でした。
しかし、バブル崩壊後は昼間だけでなく夜の古町も目に見えて寂れていき、なじみにしていたお店も多くは閉店してしまいました。職場などの団体の飲み会は新潟駅周辺が定番ですが、今でも友人とのプライベートの集まりでは必ず古町に繰り出します。先日は、コロナ禍を奇跡的に乗り切った(?)数10年来の行きつけのお店を訪れ、店主と数年ぶりの再会を喜び合いました。いつものように「あの頃の古町は良かったよねー」と語り合い、毎回同じ内容にも関わらず昔話で盛り上がります。私が職場の若者に事あるごとに話す古町バブル伝説も、もはやパワハラレベルと言えるくどさかも知れませんが、きっとますます尾ひれをつけて語り継いでいくことでしょう。
(竹之内 辰也 記)