春爛漫の季節になりましたが、能登半島地震のあと、先行きが見えないなかで不自由な避難生活を送っておられる人々に心からお見舞い申し上げます。
桜が満開を迎える時期になると、東日本大震災で被災した石巻市の海岸近くにある門脇小学校の校庭のそばの桜のことをいつも思い出します。新潟市医師会の呼びかけに応えて、JMATの救護班の一員として、石巻市を訪れる機会がありました。高校の修学旅行で訪れてから46年ぶりでした。最初に訪れた3月31日には、桜は硬い蕾の状態でしたが、4月中旬に再訪したときは満開を迎えていました。5月中旬にもう一度訪れたときは葉が青々と茂って大きな日陰を作っていました。津波により根元は海水に浸っていたと思われますが、その生命力の強さに驚かされました。
救護所では僅かながらも、1日に十数人の患者さんを診察しました。被災時のことをこちらから尋ねたりはしませんでしたが、当時の様子を語ってくれる人もいました。1回目の派遣時には電気と水道は復旧していましたが水洗トイレは使用できず、ノロウイルス感染症が蔓延していました。肉親の安否や津波で流された家財などを探すために市内を捜索している人々が多くいたようで、昼間の避難所は閑散としていました。
石巻市では海岸から数百メートル内陸まで津波が押しよせていましたが、高台の避難所に避難した人たちは肉親や家、職場などを失ったにもかかわらず、日々を辛抱強く耐えて暮らしているように見えました。もともと一時避難所は快適なものではないので、そこにいる被災者は二次避難所や自宅、仮設住宅に移動する前提があるのでしょうが、移転先が決まる前に避難所の閉鎖が決められた際には、被災者が激しい怒りを示していたとのことでした。
1月1日の能登半島地震では新潟市でもかなりの揺れがあり、最大で5mの津波がくる可能性があるとのことで津波警報が出ました。自宅は中央区の海抜5メートルの場所にあり、町内では近くの避難所に避難した人もいましたが、私たち家族は停電しなかったせいもあり、テレビで地震についての報道をみたり、付近の道路が冠水していないか確認しながら家に留まりました。今更ながらではありますが、本来はきちんと避難するべきであったと反省しています。
(勝井 豊 記)