須田 生英子
2024年1月1日16:10、私はその時山口県から愛媛県に向かうフェリーの中にいました。穏やかに晴れた日で、瀬戸内海は湖のように凪いでおり、「こんなに過ごしやすいお正月の地域があるんだなあ」と少し羨ましく海のきらめきを眺めていました。
船内ではNHKのBS放送が流されていましたが、16:10以降は急に慌ただしい緊急放送となり、能登半島で地震が発生したこと、能登半島から新潟に及ぶ広い範囲に津波警報が発令されていることを次々と伝え始めました。最初は、今見ているのどかな景色にそぐわないほど緊迫したアナウンサーの声に「なに?」という感じ。一緒に乗船していた地元の方たちは、放送をうるさく感じているようにさえ見えました。しかし、その後もずっと続く「海には絶対に近づかないでください!」というアナウンサーの声を聞きながら、私の中でようやく「これは大変なことになっているぞ」という気持ちが芽生え始めました。それから新潟の知人やスタッフとLINEのやり取りを行い、全員の無事を確認して安堵したのですが、その間もずっと不安とは少し違う、何か不思議な違和感が心の中にありました。
2日後の1月3日、仮復旧したばかりの北陸道を福井県から新潟県に向かって走っていると、石川県ではカーナビの画面に通行止めを示す赤い×印が一般道を埋め尽くすように表示され、高速道路の路肩もあちこちで大きく消失していました。また並走して走る多くの災害派遣用自衛隊車両も目にするようになりました。ここまでの厳しい状況を目の当たりにして、私はようやく元日の違和感が何だったのかを理解しました。
瀬戸内海で元日の地震を画面越しに眺めていた時、その災害は自分にとってどこか他人事だったのです。それが実際の被害を目にして、徐々に当事者の気持ちに変わっていった…あの時の違和感の理由を言葉にするならそんな感じでしょうか。職業柄、私たちは共感力が必要であるといわれています。自分なりには努力しているつもりで日々の診療も行っています。けれども、それで当事者の気持ちを本当に汲み取っていたのか…わずか3日間の自分の心の変化を考えると、その不十分さに気付かされ恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。
幸い今回の地震における新潟市内の被害は、広範囲に及ぶものではなかったようです。けれども、一部の地域ではいまだに様々な影響が残されたままで、生活に困難を抱える方もいらっしゃいます。北陸地方整備局が出している「液状化しやすさマップ」を開いてみると、新潟市は広範囲で液状化のリスクが高いことがわかります。地震による被害が出るか出ないか紙一重の場所で私たちが生活していることを常に気に留めておく必要があります。だからといって実際どうすればいいのか、簡単な解決策も見つけられない問題ではありますが、今回の罹災者の方もその周りの人もできるだけ同じ気持ちを共有しながら、改善点を見つけて進んでいくことの大切さを感じています。
(令和6年5月号)