長野 泰甫
夏目漱石の夢と言えば誰もが『夢十夜』を思い浮かべるだろうと思う。しかしこれは漱石の創作であり実際に漱石が見た夢ではないと言われている。では漱石はどんな夢を見ていたのだろうか。漱石の日記に夢についての記載はいくつかあるものの具体的な内容は記されていない。ある日内田百閒の『漱石先生雑記帖』を読んでいた時、漱石が語ったという次の様な記述に出くわした。
「教師をしてゐた時の事を、今でも夢に見るらしい。昨夜は眞鍋だったか森だったかにon Homer’s sideと云ふ熟語をきかれて、それが解らなくて、弱ってゐる夢を見た」ここに出て来る眞鍋は松山中学で教えた眞鍋嘉一郎(後の漱石の主治医)のことだと思うが、新任教師の漱石を困らせようと「先生の訳は辞書の訳と違う」と手を挙げて述べた所、「それは辞書が違っている。辞書を直しておけ」と言ったというエピソードが伝えられている。この事が漱石の脳裏のどこかに残っていてこんな夢を見させたのであろうか。所でこの夢の中に出て来る熟語について辞書で調べてみたが出ていない。ホーマーは『イリアス』や『オデッセイ』の作者と伝えられているホメロスのことであろう。ホメロスは「弘法も筆の誤り」の弘法に匹敵するらしい。優れた人や徳のある人の所には自ずと人々は集まり支持者も多い。想像に過ぎないが「あのホメロス(弘法)にも間違いがある。一つや二つの間違いがあっても自分はホメロスの味方である」の意か。論語にもあるではないか「子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り」と。漱石にも類似の句がある。
累々と徳孤ならずの蜜柑哉 漱石
このように考えると漱石の夢の熟語の意味も分かるような気がするが、英国の小説や評論文に出ている熟語かも知れないのでお分かりの方はご教示いただければ有り難い。
(平成30年4月号)