蒲原 宏
新潟市の所謂「新潟島」。江戸初期に町づくりをされた本町、古町、東堀、西堀を含めた地区の衰退はまさに町としては瀕死の状態。
市長が先頭に立って芸者を踊らせたり、古町どんどん、音楽の祭をやっても、その日だけ一寸人出があるが、後は連日閑古島も鳴かないゴーストタウン様症状。地下街のローサに至っては倉庫の中を歩いているごとし。
保健所、図書館の出店を作ったりして税金の無駄使いに拍車をかけているだけ。70年前に「大学を新潟島から郊外に移すと町は必ず衰退する」と街頭演説までした新潟医科大学の老教授がいた。だが誰も耳をかさなかった。
当時の県知事、市長、県市の議員たちは老学者の戯言と嘲笑っていた。同僚の教授達も定年直前の老耄先輩の戯言と思っていた。
解剖学者の工藤得安先生(1888~1955)がその人。当時教授の定年は60歳。昭和23年の定年で辞令を学長が渡そうとしたら「戸籍が間違っている」と頑強に抵抗した逸話の人だから老教授の妄語と聞き流された。先生は「私の留学したドイツではボンでもフライブルグ、ハイデルベルクでも町の真中に大学があり、地方文化、住民の知の中心。若い学生と大学に働く人、大学御用の業者が大学の周辺に生活しているので数百年たっても町は安定し、生き生きとしている。大学を郊外に移すのは愚かである」と説いて新潟大学の郊外新設に反対した。辛うじて医学部だけは残った。若い1万人余の学生と職員、家族が新潟島から消えた。
新潟島で知的活動をする人々を支えてきた各種の経済活動も衰退し商業地区の消失へと荒廃し、人口減少、知的施設、知的産業の撤退が進行した。荒廃した古町通を歩いていると虚空から「僕の話を真剣に聞いてくれなかったせいだよ、全て手遅れだね。ウワッハッハ」という工藤先生のダミ声の哄笑が聞こえてきた。
工藤先生は陸上競技場地区の大学整備と高層建築化によって町の真中に知の中心総合大学を造る構想を説いておられた。あの頃はそれが可能な土地があった。陸上競技場、野球場など町の真にある必要はないとも説いていた。今にして思うと、工藤先生の総合大学構想が無視されたのは甚だ残念なことであったと70年前を回想する次第。
(平成30年4月号)