田村 紀子
私には伯母が5人いた。中でも父の姉で「洋裁のおばちゃん」と呼んでいた伯母のことが時々思い出される。その伯母は師範学校を出て教師になったのだが、両親の反対を押し切って満州に渡り、終戦時、命からがら日本に戻ってきたとのこと。「満州はものすごく寒かった。現地の人はマントウという湯気のたった饅頭みたいなものをフーフー吹いて食べていてね、どんなにおいしいのかと思って買って食べたけど、まずかった!」とか「引き揚げの時は坊主頭にした。男の服装でないと船までたどり着けなかった。何度も殺されると思った」などと話していた。戦争体験談は祖母も両親もあまりしなかったので、伯母の話は何とも印象的だった。伯母は教職に戻ることなく、洋裁をしながら洋裁学校で教えていた。そして私たち双子の姉妹には、ミシンで実に様々なものを作ってくれた。ぬいぐるみ、制服、スカート、ワンピース、ベスト、スーツ、マントコートなどなど。今思えばオーダーメードだったわけで、何とも贅沢な子供時代だった。その中でも一番のお気に入りはネズミの縫いぐるみだった。ミッキーマウスとトッポジージョを組み合わせた感じのもので、単1乾電池大の胴体に短い手足と長い尻尾、大きめの頭がついていて、とぼけた印象の目と、への字の形の口が刺繍されていた。服の生地と尻尾の形を変えて、妹と私に一つずつ作ってくれたのだ。「ネズ」と名付け、小学校に入学するまでの数年間いつも一緒だった。食事の時はご飯粒を口に置いて食べさせた気分になっていた。もちろん寝るときも一緒だ。次第に汚れていって(特に口のまわり)何度も母に洗濯された。「ネズ」は尻尾を洗濯ばさみではさまれ、物干し竿にぶら下げられていた。かわいそうで、早く乾かないかと何度も物干し竿まで見に行っていた。流行のリカちゃんやタミーちゃんは買ってもらえなかったが「ネズ」がいれば満足だった。
伯母が亡くなった時、通夜で妹や従姉達と伯母の思い出話をした。伯母はみんなに手作りして喜ばせていたことがわかった。私たち姉妹の一番の思い出は二人とも「ネズ」を作ってもらったことだった。妹も50年間ずっと覚えていたのだ。二人で「ネズを作ってくれて本当に嬉しかった。私達をかわいがってくれてありがとうございました」と遺影に手を合わせた。伯母は「かける時間と費用、出来栄えを考えれば、買った方が良いものもある」と言ってはいたが、これまで「ネズ」のような縫いぐるみには一度も出会えなかった。子供のいなかった伯母は、きっと愛情をこめて手作りしてくれたのだと思う。
(平成30年4月号)