阿部 志郎
若く感受性が豊かな時代に、車窓から眺めた景色を今改めて思い返すと時代が見えてくる。
私が小学校2年生(昭和32年“1957年”)秋、四国鳴門にある母の実家で祖父の年忌に出席のため2才年下の弟と母の3人で一週間の授業欠席の承諾を得て旅行に出た。
当時の新潟駅は今の代々木ゼミナール建物地点にあり、木造の簡素な駅舎であった。
駅前から万代橋への街路が“駅前通り”と称し、旅館、理髪店、金物屋があった。
通りは今も残存しているが、流作場交差点手前で袋小路となり出られぬが流入は出来る。
駅前広場は今の“弁天公園”敷地と思われる。
駅改札口上の壁に黒い木札で行先の駅名が白く毛筆で書かれている。ホームは2~3面。
“名古屋”の読み方が判らず“なふるや”と自分流に読んだ記憶がある。
他県から大阪行き急行は新潟駅に寄らず、途中駅の新津から乗り込むので席が取れない。
子供連れには無理なので新潟駅を始発とした普通列車を選択したと母は言っていた。
記憶にないが、牽引機関車はSLだったと思う。
13時30分頃、大阪駅行きの各駅停車に乗車。大阪駅に翌朝7時到着(17時間乗車)、進行方向に背を向けて窓際左側に座る。列車は町並みの裏側に広がる畑を通過し、速度を上げ500メートル程北東にある沼垂の万代町通りと斜めに交差する踏切へと向かう。
ここは踏切番屋があり、赤と緑の旗を持った国鉄職員が頻繁に遮断機を上げ下げしている。
今この線路跡は“三社通り(新天地)”と呼ばれ、約700メートルの直線道路だ。
その一直線の線路を、列車は車窓に木造住宅の裏口・台所・洗濯物などを至近に見せながら走り抜け、魚市場のある東港線(車道)に出て、そこで併走する。
先ほど駅で我々を見送った父の青いダットサンの車が、私の座っている右窓枠の後方から列車に追い越され窓枠前方へと消えていった。
程なく、列車は右に大きくカーブを描き(北から南)沼垂駅のホームへと滑り込む。
沼垂町を抜け左に進路を変えれば、田園風景のまっ直中に出る。
亀田町へ向け、数キロに及ぶ一直線の線路。進行方向右車窓に角田山、弥彦山の2つ瘤。
長岡駅から柏崎駅へは山間部を通る。山中の長鳥駅でホームの駅弁おじさんが“アイチキリン、アイチキリン”と可愛い声を出しながら窓辺に現れた。田舎に来ると“アイチキリン”と呼び名が変わるのに驚いた。アイスクリームを買って、喉を潤した。
柏崎駅を抜けると進行方向右窓辺に紺碧の日本海が広がり、短いトンネルも通過した。
後日、学校提出の絵日記に“トンネルを抜けると海だった”と書いたら母が笑って褒めた。
途中から同席のおじさんに、これから行く駅名を時刻表を見ながら教えて貰った。
動橋“いぶりはし”動石“いするぎ”は面白い駅名なので、その場で覚えた。
午前2時に福井駅停車。誰もいない深夜のホームに菊人形が飾られていたのを覚えている。
大阪駅午前7時到着。食堂で氷水を注文したら、従業員が怪訝そうに顔を見合わせ持ってきたものは“水に氷を浮かせたヤカン”だった。所変われば品変わるものである。
(平成30年4月号)