穂苅 環
携帯電話でタクシーを呼び、杖を付きながらも一人で床屋に行き、金銭管理もしていた87才の父が、昨年末インフルエンザに罹患した。主治医としても娘としても、肺気腫の吸入をしている父が心配で、一応K病院に急患で連れて行った(日曜)。ラピアクタ®の点滴、タミフル®と抗生剤の処方もしていただいたが「インフルエンザですしね…」と入院は断られ、サ高住の自室で隔離生活。3、4日もすると、喘鳴強くなり、施設に常駐する看護師から「息苦しそうなので、救急車呼びますね」と電話あり、入院となった。心不全、呼吸不全で酸素対応となる。
入院加療すればめきめき回復するだろうと甘く見ていたのだが、さにあらず。個室の閉鎖空間で、辻褄の合わないことを叫び、無断でトイレに行くので点滴がはずれ、流血騒ぎ。老人施設ではよくあることだが、まさか、父に限って…と耳を疑った。いや塞ぎたかった。
仕方なく夜間は付き添い婦を付け、朝に夕に仕事帰り顔を見せたが、見当識障害は徐々に悪化。「もうたくさんだ」と手で遮り、食事を摂らなくなった。「025…に電話をかけて、タクシーを呼んでくれ。うちでお風呂に入る」等々。連日の点滴とフォーレ挿入となる。必然的に両手にミトンをはめられベッド柵に縛られ、私が行くたびに「取ってくれ」と懇願する。自分の歯で外そうとする。大奮闘の惨状が垣間見えた。要支援2があっという間に要介護5である。
その後は老衰最期の経過を辿る。私の方から「点滴はもう不要です。自分の食べるものだけで」とお願いすると、それから1週間余り。母や息子達もゆっくり見舞いでき、苦痛もなく、静かに息を引き取った。
入院2か月余りだったし、ある意味「ピンピンころり」の部類であろう。母も私もあまり苦労がなかった。
難問は亡くなった後である。年金、通帳、株、生命保険、不動産等の書類を一から私が確認する作業が待っていた。母はその方面には無頓着、父任せで何も知らない人である。
なんとか整理がついて、会計事務所で相続税の支払いの話になった7月末、なんと郵便局の定期10年満期のお知らせが来た。寝耳に水で、父の郵便通帳が見当たらない。新盆のお参りを終えた一人娘のため息が、父に聞こえるだろうか。