蒲原 宏
慶応3年(1867年)旧暦11月15日京都河原町通近江屋の二階で土佐藩郷士で幕末の志士坂本竜馬(変名才谷梅太郎1835~1867年)は同郷の同志中岡慎太郎(変名石川清之助1838~1867年)と共に幕府見廻組によって暗殺されたことは衆知の史実である。坂本竜馬の伝記を見ると、竜馬は江戸の剣術三大道場の一つ千葉周作(1794~1855年)の創始した神田お玉が池の玄武館で後継者千葉定吉から北辰一刀流の免許皆伝を授けられた剣豪であったとされている。そのような剣の使い手がむざむざと斬殺されたのは、かねての倒幕計画がどうやら順調に運ばれはじめ、同志の中岡と話し合っている最中というリラックスしていた夜間に急襲されたために応戦体勢をとることができなかったとされていた。
しかし、竜馬の師勝海舟(1823~1899年)の伝記作者勝部真長の『勝海舟伝』(1972年刊)の中で竜馬の死について「千葉門下の有数な使手の竜馬がどうしてやられたか。竜馬は梅毒を患っていた、それが運動神経をにぶらせたのでないか。竜馬が長崎にいた頃から梅毒であったことは、彼の弟子であった中江兆民が証言している。」と書いている。『中江兆民全集』について調べたが載っていない。この証言は竜馬と同じ土佐出身の明治の思想家中江兆民(1847~1901年)が藩命でフランス学を命ぜられ長崎留学中に当時亀山社中として在長崎の竜馬と接した回想談を兆民の弟子であった同じ土佐出身の明治の社会主義者幸徳秋水(伝次郎1871~1911年)に話したことを秋水が師の伝記『兆民先生』(岩波文庫)の中で次のように引用していた。
「故坂本竜馬君等の組織する所の海援隊亦運動の根拠を此地に置き土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。兆民先生嘗て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ。予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざる予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、『中江のニイさん煙草を買ふてオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屢々たりき。彼の眼は細くして其の額は梅毒の為め抜け上り居たりきと。」とある。
当時の長崎は丸山遊郭をはじめ男の女遊びは金さえあれば不自由しない港町であり、性病患者も多かった。外国から陰門開観という検査要求も公式にあり遊女の強制検診も行なわれたほど。竜馬も女遊びをして性病感染をした可能性は一概に否定できないが、さりとて眼が細くて前頭部の禿げ上りだけで梅毒と素人診断されるのも一寸気の毒に思う。兆民は医師ではない。兆民は竜馬の女遊びを羨しく思っていた女遊びのできない藩留学生の憶測ともとれるようにも思える。W. H. ErbによるSyphilitic spastic paralysisの最初の報告は1875年のことでErb’s paralysis又はErb-Charcot diseaseとよばれているが、竜馬にそれを立証できるような症状についての明確な文書記録は発見されていない。それに、敢てこの症状を中江兆民の回想を根拠にした勝部の推測をあてはめても、その発症が竜馬の年齢からみても短か過ぎる。
梅毒の血清学的試験法(Syphilis complement fixation test)がドイツのAugust von Wassermann(1866~1925年)とA. Neisser及びCarl Bruckによって発表されたのが1906年である。それと同年にハンガリーの病理学者Laszlo Detre(1875~1939年)が全く同じ試験法を発表しているが、これらの血清学的試験法とSpirochaeta pallidaの顕微鏡下の証明によって梅毒が決定されるのでなければただ外観による医師以外の人による梅毒呼ばわりは甚だ怪しいものと考えたい。
竜馬と慎太郎を襲った刺客が確実な情報の下で用意周到な計画によって宿の取次の者よりも速く部屋に斬り入り佩刀を取る時間を与えず惨殺したと見たい。梅毒性の神経障害説に賛成しかねる。強者を倒すには油断しているところに先制攻撃をするのが最も有効なのである。剣豪の竜馬もそれにやられただけである。
(平成30年10月号)