永井 明彦
本誌4月号の「陽春薫風」欄で、幼少期を会津で過ごした自分にとって、明治150年は戊辰150年であり、祝賀ムードとは無縁であると書いたが、今年はベートーベンの第九交響曲“合唱付き”の本邦初演100周年でもある。1918(大正7)年6月1日、第一次世界大戦時に徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所で、アジアで初めて第九が演奏されたのだが、このエピソードの裏にも会津との深い因縁があった。
第一次大戦で日本と敵対したドイツは東アジアの拠点である中国の青島を日本に攻略され、将兵4,700人が捕虜となった。板東収容所には当初約1,000人が収容されたが、他の収容所から新たな捕虜が板東に移送されると、先着していた捕虜による楽団が演奏する“プロイセン行進曲”が歓声と共に鳴り響き、新入りの捕虜達を驚かせ感激させたという。「彼らも祖国のために戦った勇士であり、名誉を傷つけてはならない」という収容所長の松江豊寿の計らいだった。
陸軍のエリート街道を歩んだ松江は、実は戊辰戦争で敗れた会津藩士を父に持ち、降伏した人々の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人であった。敗者の心の痛みを知っており、権威を振りかざさず、武士道で言う“惻隠の情”でドイツ兵俘虜に接した。東京の陸軍省は俘虜に寛大な松江を快く思わず、収容所の予算を削減し「いつまで経っても会津は会津だ」などと蔑んで圧力をかけたが、松江は「自分が預かっているのは収容所であって刑務所ではない」と一歩も譲らず、会津人の気骨を示したのである。
第九の本邦初演が板東収容所で行われたという逸話は、2006年6月公開の映画、出目昌信監督の『バルトの楽園(がくえん)』で詳しく描かれている。バルトBartはドイツ語で“髭”の意、多くの捕虜と松江豊寿(松平健が好演)も生やしていた。ドイツ兵捕虜は無理矢理駆り出されて従軍した青島の一般市民が殆どだった。彼らは各分野の商人ギルドとして職を持ち、中には音楽家や演奏家もいて、松江所長の配慮で捕虜を慰めるために徳島オーケストラが組織された。合唱の女声パートを男声がカバーして歌うなど不完全な演奏ではあったが、心からの“歓喜の歌”が歌われた。戦後、鳴門市では6月第1日曜日を「第九の日」に制定し、なると第九演奏会が毎年開催され、「alle Menschen werden Brüder」という第九の精神を通じてドイツとの文化交流が続いている。先頃も鳴門市での本邦初演100周年記念演奏会の模様がNHK-BSで紹介されたのでご覧になった向きもあると思う。また会津でも戊辰戦争が終結した9月24日に松江豊寿を顕彰して第九演奏会が開催されたそうだ。
日露戦争に勝利した直後の日本は、文明国であることを喧伝するため国際法(ハーグ条約)を遵守し、捕虜の人間性を尊重して罪人のように扱ってはならないとした。特に板東では捕虜の自由度が格段に高く、第九の本邦初演をもたらしたが、太平洋戦争では日本軍兵士が神国日本の「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に呪縛される。自軍の兵の命を粗末にすることと、捕虜の命を軽んじることは同根である。無残な玉砕があり、捕虜への虐待が横行した。戦前の日本に第九の精神が根付いていたら、あのような無理無態は避けられたのではないかという忸怩たる思いがする。現在の政治状況に目を移すと、日本会議に後押しされた自公政権が改憲を目論んでいる。第二次大戦後の民主主義や自由を享受する現代日本であっても、憲法改悪により、かっての暗黒の時代に立ち戻らないという保証はない。板東俘虜収容所の歴史や松江豊寿の生き方から学ぶべきことは多い。
(平成30年10月号)