阿部 志郎
1964年(昭和39年)6月16日13時01分、私は新潟高校校舎3階1年8組教室の廊下側の席で、次の授業・漢文に備えて壁にもたれ黙読をしていた。
突然、頭がふわりと宙に浮く異様な感覚を覚えた。直後、下からドーンと突き上げる力と音を体験した。その後、教室全体を揺がす振動と軋む音が数分続いた。天井から下がる蛍光灯が揺れている。地震? と訝しく思った。揺れが収まってから廊下に出た。
廊下の窓から北方に一本の黒い筋が晴れ上がった紺碧の空を登ってゆく奇妙な光景を見た。やがて黒い筋は上空で茸雲を作り横に広がった。「ソ連が攻めて来た」と誰かが叫ぶ。
体に揺れを感じながら、階段を一気に駆け降りグランドに出た。
地面に亀裂が生じ、所々で地下水が噴き出し小さな砂山が出来ていた。液状化現象である。全校生徒がグランドに集められ、先生から「今のは地震だ。状況は不明」と報告を受ける。身の安全に留意し帰宅せよと告げられ、その場で解散となる。
学校より徒歩15分程度の白山浦地区に親戚の家があり、情報収集のため立ち寄った。
叔母さんの家は地震の影響もなく、在宅だったので茶の間でお茶を飲みながらラジオから最新の情報を仕入れた。「昭和大橋の橋桁が落下し通行不能、八千代橋袂の道路が陥没、信濃川から俎上の津波襲来か?、山の下地区の昭和石油タンク数基が爆発炎上、成沢石油タンクも炎上」など…。「万代橋は落下せず袂の道路に段差はあるが徒歩で通行は可能」の確かな情報をキャッチし、信濃川を越え東新潟・山の下地区へ帰れると判断した。
6月16日は夏至に近く19時まで明るい。自転車を借りて16時に出発。東中通り、柾谷小路を問題なく通過し万代橋に…橋の袂は路面の陥没・亀裂で車は通行出来ない。
自転車を手で押し亀裂道路を通過。東港線は魚市場から魚箱が水浸しの道路に一面散乱しており津波到来が窺えた。通船川に架かる山の下橋は損傷なく無事に山の下地区へ入れた。家の前の道路は膝下程度の浸水なので、足でこざきながら歩いた。
家族の中で一番帰りが遅いと言われたが、これが堅実な方法だったと思っている。
まだ明るかったので、カメラを持ち昭和石油タンク炎上現場へ写真撮影に行った。
赤道と飛行場道路がT字状に交わる地点の小高い丘に陣取り、黒煙と赤い炎が燃え盛る光景を見下ろし撮影していたら、消防士に危険だからと追いやられた。
日が暮れると停電のため部屋は暗くなり、夜空を焦がすタンクの炎上は明るさを増す。
時折、爆発音を伴い窓を通った光が部屋をオレンジ色に染める。
一階の畳部屋は床下浸水だが湿気を帯びて居られず、二階の部屋に避難した。
翌朝、眼前の道路に小舟の往来を見る。裏の通船川の堤防が決壊し水位が上ったらしい。給水車に水を貰いに行く時、足元で動く赤い魚を見た…庭の瓢箪池に飼っていた金魚だ。掴まえても飼う池が庭に水没しては何もできず、悔しい思いをした。その夜タンクは燃え広がり、塩化メチル水銀の貯蔵庫に延焼の危険が迫る。神経毒のある塩化メチル水銀が爆発し飛散すれば周囲10~15キロ以内の吸った住民は廃人となる危険ありと避難命令が伝えられた。襲い来る切迫の事態に怯え、暗澹たる思いに襲われた。後編へ続く。
(平成30年10月号)