大滝 一
今年は明治元年と戊辰戦争開戦から150年の年でした。その戊辰戦争は明治元年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いで始まり、明治2年5月18日に榎本武揚が五稜郭で降伏を宣言し幕を閉じました。この戦い後、維新政府からなされた幕府側についた奥羽越列藩同盟各藩への戦後処理には、藩によって大きな差がありました。中心的存在であった仙台藩は62万石から28万石へ、長岡藩も7.4万石から2.4万石に減封、そして会津藩は23万石から下北半島の斗南藩3万石へ移封と厳しい対応がなされました。
そのような中で、会津藩などとともに同盟の中心的存在であった庄内藩は17万石から12万石へと軽い減封ですみました。この処分の差はなぜなのか?以前から不思議に思い、頭の隅でモヤモヤと長い間燻っていました。その疑問が、この秋の鹿児島での学会の際に見事に解決したのです。本当にスッキリしました。
それは学会を終え、城山観光ホテルから鹿児島中央駅に向かうタクシーの中でのことでした。運転手さんのプロフィールが書かれたプレートに「得意なこと」の欄があり、そこに「歴史に関すること」と書かれているのを家内が見つけました。そこで「私達は庄内の出身なのですが、先日会津の友達から、戊辰戦争で同じ負け組みの会津と庄内の戦後の対応が全然違うのはなぜなのか、と聞かれ答えられなかったのですが、運転手さんはご存知ですか」と家内が質問しました。
すると、それこそ待ってましたとばかりに「それは時々聞かれることで、事実は書物などにもほとんど書かれていないんですよ」と言って、詳しく説明してくれました。以下にその要点をまとめてみました。
薩摩藩と庄内藩のつながりは明治維新のさらに約100年前、今から250年前の江戸中期に遡るそうです。当時の日本は鎖国のため外国との貿易は禁制でした。しかし薩摩藩では九州の南端で幕府の目が届かないことをよいことに、盛んに密貿易を行っていたとのことです。当時の薩摩藩当主の島津重豪は、藩の繁栄のため密輸品も含めた藩内の特産品の販売に力を注ぎ、商業の発達を強力に推し進めたそうです。そこで必要となるのが優秀な商人です。薩摩藩では商才のある人物を求め商人誘致政策をとり、全国に募集したそうです。そこに応募してきたのが出羽(現:山形県)庄内生まれで、紅花商人として全国を股にかけて大活躍していた岩元源衛門でした。
源衛門は安永元年(1772年)に薩摩に移り鹿児島城下に「山形屋」をいうお店を構え、全国津々浦々で薩摩の商品を販売し、さらには朝鮮半島まで販路を広げたとのことです。この源衛門の働きにより薩摩藩は莫大な利益を生み、その後の繁栄につながり、島津斉彬のころには当時の日本では傑出した先進的で豊かな藩となったのです。薩摩藩の繁栄は庄内出身の岩元源衛門なくしてはありえなかったのです。
源衛門は大きな屋敷を与えられ、彼が興した山形屋は今も鹿児島では伊勢丹などを凌ぐ総合デパートのNo1の地位にあり(写真1)、お中元やお歳暮は山形屋でなければ、と言われているそうです。
ちなみに「山形屋」の読みは「やまがたや」ではなく「やまかたや」であり、初めは源衛門の出身地にちなみ「庄内屋」と命名する予定だったそうです。しかし密貿易も絡んでおり源衛門に迷惑がかからないようにとの計らいで、出身である庄内を用いず山形とし、かつ読み方を「やまかた」にしたとのことです。庄内藩に関する話があまり表に出てこないのは、ご禁制であった密貿易も絡んでいることが関係しているのではないかと思います。
そのような経緯があって、戊辰戦争後の庄内藩の処遇についての話し合いの席で江戸幕府の譜代大名で、しかも薩摩藩江戸屋敷を焼き払った庄内藩の取り潰しの話が出た際に、西郷隆盛が言った「庄内藩を潰すくらいなら、おいどんを殺してくれ」の一言によって、庄内藩が他の列藩同盟と違う処遇を受けたとのことでした。
戊辰戦争後、庄内藩では家老の菅実秀を薩摩に遣わせ、西郷隆盛にお礼を述べた上で、今後の藩の運営について教えを請いたとのことです。
その後現在に至るまで、元庄内藩であった鶴岡市では、西郷隆盛を「南州翁」として崇め、鶴岡市立朝暘第二小学校と鹿児島市立大龍小学校では姉妹校として今も交流を行っています。その大龍小学校も立派な学校で、2014年に「青色発光ダイオードの発明」でノーベル物理学賞を受賞した赤崎勇氏の出身校でもあります。
ということで、鹿児島中央駅までの道すがら、その運転手さんが西郷隆盛と庄内藩の家老である菅実秀が会談をしている像がある場所を案内してくれました(写真2)。本当に偶然ですが、新潟に帰る鹿児島での最後の最後にこのような運転手さんに出会えたことに驚くとともに心から感謝した次第です。
これで、家内も会津の友達からもう一度聞かれたら明確に答えられるだろうと思います。
また私がその前日の発表の最後に、新潟市医師会報に『西郷どん』の読後感を掲載し、自分が庄内出身で西郷さんと薩摩藩に感謝しているとして発表を終えたところ、座長より「私達、薩摩藩も庄内藩に心より感謝しています」との言葉がありました。そのときは、なぜ薩摩藩が庄内藩に感謝しているか分かりませんでしたが、この点に関しても大いに納得できました。
それにしても西郷隆盛が西南戦争の末期に立てこもったとされる城山に立つ観光ホテルは素晴らしかったです。施設、接客、食事、そして露天風呂から眺める桜島(写真3)、いずれも極上でした。
本当に実り大きな鹿児島での学会でした。