山﨑 芳彦
平成31年1月の新潟県医師会報に、橋立英樹先生が、中国からの留学生に黄疸について説明しようとして、jaundiceと書いたりしたがなかなか通じなくて、日本語で黄疸と書いたら一発で理解されたと書いておられたが、これこそが漢字の優れた効用である。
著者から贈呈されたが、なかなか難解で途中で投げ出したままになっていた本であるが、新たに読みなおしてみると、日本語の成り立ちや漢字の歴史、漢字の優れている理由など未知だったことが多く、目からうろこの思いであったので感想を述べてみたい。いささか古くなるが、昭和61年、日本の著名な言語学者である次頁最後にある3人の著者が中心となり、中国、韓国、ベトナムの漢字圏から各々言語学者を招き、“漢字民族の決断”と題して国際シンポジウムが開かれた。この時の討論を纏めたものが本著であり、内容は今でも全く色あせていないと思う。
漢字は4−5世紀に仏教とともに中国から日本に伝わったといわれ、これを大和言葉に融和させ、平安時代の初め頃、ひらがな、カタカナを作り、複雑だが豊かな表現ができる日本語として発展させてきた。同じ漢字民族でも、朝鮮は500年前から、漢字にハングル文字を併用するようになり、今はほとんどがハングル文字になり漢字は消えつつある。ベトナムはベト・ムオン語に漢字を加えたベトナム語になり、10世紀から19世紀まで漢字が取り入れられたが、その影響は今でも多く残っている。しかし、今では文字はローマ字表記になっている。中国においても、漢字を簡略化しようと、簡体文字が取り入れられ、長い歴史の中で変化してきている。科学用語もローマ字での表現が検討されたことがあるが、現在では、漢字で新たな専門用語を作ってしまえば、文字からある程度内容が理解できるので、ローマ字にしようという試みは消えたという。漢字圏の一つの国として、今後、日本語はどのように発展していこうとするのかを2日間に渡り討論したものである。読み始めは、世界中の言語と漢字文化との相違など詳しく討論されており、その博識に圧倒され、難解な記述にこれは読みこなせないと思ったが、読みすすめてゆくうちに、なるほどと思わせることが沢山出てきた。
歴史上、日本語から漢字が消えてしまいかねない2回の危機があったという。1回目は、明治維新の頃、西洋文化文明は絶対的に優位で、非西欧のそれは劣っているという偏った構図のもとに、当時の知識人が、日本の文化の遅れは、複雑な漢字を使う日本語にあると考え、西洋の知識を取り入れて追いつくためには英語にすべきであるという討論がなされたという。2回目の危機は、第二次世界大戦で日本が敗れ、米国の支配下に置かれた時、やはり、複雑な漢字文化が知識や経済の進展を遅らせたと考え、漢字を制限して当用漢字を制定したり、文字はローマ字にすることが検討された。タイプライターも、欧米のものは文字数が少ないため簡単に小型化できるが、日本語のタイプライターは非常に複雑であり、活版印刷でも多くの活字を拾う必要があるため莫大な時間がかかり、これが経済の発展を遅らせたと考えた。しかし、日本経済の発展は、1970年代になると目覚ましく、漢字文化の影響ではないことが証明された。コンピューター時代になり、日本語ワープロが発展した現在、文字の多寡はほとんど関係なくなった。漢字の長所として、例えば、血液に関連した医学用語、赤血球、出血、白血病、貧血、造血、吐血など文字を見ただけで、専門家でなくともその意味をある程度理解できてしまう。英語では血液はblood、赤血球はred blood cell とこれは一般人にもわかるが、hemorrhage、leukemia、anemia、hematogenesis、hematemesisなどの医学用語をはじめとする専門用語は、一般人には理解が難しい。これは、ドイツ語は一般的な用語を組み合わせて専門語を作るが、英語では多くを、ラテン語やギリシャ語から取り入れているためで、これらの知識が乏しいと理解困難という。他にも、日本語では、例えば英語の多くのシラブルが、パソコン(computer)、合コン(company)、生コン(concrete)、マザコン(complex)、リモコン(controller)、エアコン(conditioner)などという具合に、コンに縮約されてしまう傾向がある。これらはひとつひとつコンの意味が異なっているので、どういったコンであるかはそれぞれ知識がないと理解できない。一方、漢字では、今、近、昆、根などいくつもコンという文字があるが、漢字を一見すればその意味はほとんどわかってしまう。漢字の作り方にも、水と関係ある文字を氵の付く漢字、汁、江、池などとまとめることができ、こういったことは英語では見られない。これらが日本語や漢字の最大の長所で、英語との違いである。中国語の書物をみて、発音することは難しくとも、文字を見るとある程度内容を理解できることが多い。英語は26の文字を組み合わせて作るが、日本語のように、文字を見ただけでその意味を理解することができない。すなわち、日本語や漢字は文字自体に意味を含んでいるのである。そのため、一般の日本人でも専門書の内容を理解しやすいが、欧米人には、各専門用語の意味を理解していないと読むのが難しい。平均的な日本人の頭がよいと言われる一因は、ここにあるのではないかという。たとえば、PEG(Percutaneous
Endoscopic Gastrostomy)は、一般の英米国人にはどういう意味か理解が難しいが、経皮的内視鏡的胃瘻造設術と書けば、一般の日本人にもその意味を容易に説明できる。
日本語も、明治の初めまで、方言など、各地方により話す言葉が異なり、東北と九州では互いに会話が通じないことが多かったという。しかし、東京を中心とした言葉に統一する機運が次第にすすみ、全国的に通じるようになった。中国でも、方言が多く、地方同士では言葉が通じないことが多いが、漢字は共通なので文字を見れば内容がわかるという。また、漢字は数百年の間変化が少ないので、話し方は不明でも古い時代の書物の内容も理解できるが、英語では、古い文献は一般の人には全く理解できないという。
日本が、大和言葉に漢字を取り入れ、さらにひらがなカタカナを導入し、しかもすべての文字を、1回だけ用いて、和歌を作るといった信じられないような離れ業をやってのけ、豊かな表現が可能になった。英語では、かたいことを表すのに、hard、firm、fix、stiff、solid、tough、rigid、tight、strong、serious、sureなど多くの単語があり、内容により使い分ける。日本語では、堅い、固い、硬い、難いなどがあるが、英語のように種類は多くなく、地盤が固い、鉄のように硬い、信じ難い、など前後に他の用語を付け加えて表現する。このように、漢字そのものに多くの表現があるわけではない。
世界には数千の言語があるが、言葉の伝播にも言語学者は注目している。スーパーマーケットはスーパー、デパートメントストアはデパート、リハビリテーションはリハビリと短縮され、日常の会話に取り入れられている。長い言葉は短縮されて使われる傾向は世界共通だが、誰が言いだしたかではなく、言いやすければ自然に広まってしまう。著者のひとり橋本は、妻の叔父であるが、彼は、南太平洋に多くの島々があることに注目し、これらの島々の間でどのように言葉が伝播し、どのように変化していったかを調べるため、自ら水上飛行機の免許をとり、これで島々を巡り実践に移そうとしていた。しかし、50歳代の若さでがんのため亡くなってしまい、この目的を達成できなかった。東京の病院にお見舞いに行ったときは、がんの最終ステージにもかかわらず、ベッドの上で論文の校正をしており、頭が下がる思いであった。奥様もシアトルのワシントン大学教授で、世界的に著名な言語学者である。
日本や中国においては、先に述べた理由から、漢字は優れた言語であり、今後も消えることはないというのが結論である。今まで考えもせずに使ってきた日本語が、優れた言語であることを気付かせてくれた名著であると思う。
『漢字民族の決断─漢字の未来に向けて』
著者:橋本萬太郎(東京外国語大学教授)
鈴木 孝夫(慶応大学教授)
山田 尚勇(東京大学教授)
出版社:大修館書店
発行日:1987年6月
定 価:2,500円+税
(平成31年5月号)