浅井 忍
部活の先輩から、フィアンセの実家の引越しを手伝うよう頼まれた。医進の頃だ。フィアンセの実家は内科を開業していて、引っ越し先は住んでいる家から車で数分の距離だった。7~8名の部員が、荷物を車に積み込むグループと車から降ろすグループに分かれて作業を行った。よくぞここまで家具や荷物があるものだというくらい、物で溢れていた。作業が終わると近くの銭湯で汗を流した。当時、アパートや下宿で暮らす学生のほとんどは銭湯を利用していた。
銭湯から戻ると、新居の応接間に、丼の蓋が浮き上がるほどの大盛りのかつ丼が用意されていた。近くのとんかつ専門店からの出前だった。大盛りのご飯の上に甘じょっぱい醤油味のタレに浸した薄いとんかつが3枚のっていた。貪るように食べ始めると、「中にもかつが敷いてあるぞ」と驚きの声が上がった。ご飯の中にさらに3枚のとんかつが隠れていたのだ。玉子でとじていないかつ丼は初めてだったし、ましてやとんかつの二階建ては衝撃的だった。このかつ丼は、のちに新潟のご当地グルメとして脚光をあびることになる「タレかつ丼」である。昭和40年代中頃のことだ。
ネットによれば、「タレかつ丼」は昭和の初めに新潟市の古町に店を構えるとんかつ専門店で開発されたという。「タレかつ丼」という名称は、その店から独立して開業した店主が、約20年前に考案したのだそうだ。メディアがご当地グルメを取り上げることが多くなり、玉子でとじていないことで「ソースかつ丼」と一緒くたにされてしまうことをなんとかしようと、考え出したという。
この引越し以降は「タレかつ丼」を食べる機会はなく、かつ丼といえば、玉子でとじたかつ丼をもっぱら食べていた。再び「タレかつ丼」と出会ったのは子どもたちが食べ盛りになった頃だ。メニューには二階建てかつ丼は「特製かつ丼」となっていた。
最近はときどき、件のとんかつ専門店から「特製かつ丼」をテイクアウトしている。到底一人で食べきれないボリュームの「特製かつ丼」をあえて購入するのは、ご飯の中からとんかつが顔を出した時の感激が忘れられないからだ。
(平成31年5月号)