石塚 敏朗
高齢になって困ることが出てきた。台所で水を飲むたびに、何かが喉に引っかかる。肺炎では死にたくはない。なんとかならないか。
早速、思いついたのが朗読だ。椅子の前に犬を座らせ、鼻つらに文庫本を押しつけて読み聞かせる。キラキラの瞳をじっと向け、聞き入る姿勢がよろしい。人の食事の時におこぼれ頂戴をする習慣のせいだろうがすぐに飽きて、逃げていってしまった。
次の計画で、歯科医の書いた『舌のトレーニング』という本を買った。「水を含み舌を前後に30回、左に右にそれぞれ30回、朝昼晩の3回運動する」とある。しかし、これも三日坊主で終わった。
先週、テレビで心を奪われる出会いがあった。女講談師の口のトレーニング法である。高座に出る前の楽屋で1分間、口を尖らせ、頬の筋を目覚めさせる。転がりのいい声で武勇伝を講じるには欠かせない準備だと。その日の演目は、曲垣平九郎。長い石段を馬で駆け上がり、桜の一枝を手折って散らさず引き返すという寛永三馬術。
40歳に届かない、なかなかの美人だ。重い茶系の着物地にきらめく金模様の帯、色気は少し足りないがすっと決まってよく似合う。帯の前をパンと一発たたいて高座に向かう。勇ましい演目を全身で語る前の緊張感が香りたつ、隙のなさ、たちまち好きになった。
さて、その方法は……。腹に手を置いて口をすぼめ、吹き矢みたいに息を強く吹き出して音にする。頬がブルブルと揺れる。口の形をあれこれ変えて響くところを拡げると舌骨と共に喉のあたりが振るえ、戯れる。
早速試してみた。コツを探りながら、繰り返す。いつもやっている腹式呼吸と同じ手技なのでやりやすい。早速取りかかれたのは、すっかりミーハー族に転身してしまっていたお陰である。
翌朝、洗面台で顔を下げたまま水を一口ゴクリといく。すごい、飲み込めた。鍛えれば、食道はうまく働いてくれる。若い頃、逆立ちをしながら水をのむ仲間がいた。顔をあげて口一杯にがっぷりと飲む。繰り返す。もう怖くない。気持ちがすっきりと明るくなった。これで、幾年かは命が延びる。
さあ、息を吹け、馬鹿みたいな顔になるが幸せだ。腹から笑え、万歳。
(平成31年5月号)