永井 明彦
明治150年の昨年、明治時代を顕彰する動きの一環だろうかNHK大河ドラマも『西郷どん』だった。ドラマはご多分に洩れず薩長史観(官軍教育)による明治政府に都合の良い解釈で展開し、“大西郷”は篤実温厚で庶民的なヒーローとして描かれていた。しかし、西郷隆盛は大政奉還後の小御所会議で「短刀一本あれば片が付く」と啖呵を切って徳川慶喜の官位と領地を没収し、岩倉具視と謀って倒幕の密勅を偽造するなど冷酷なマキャベリストとしての一面も持ち合わせていた。詩人で毛沢東にも似た農本主義者の西郷は、権謀術数に長けた武断派でもあり、無差別テロ集団の赤報隊を組織して薩摩御用盗を働かせ、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を誘発した。幕府側がその挑発に乗り鳥羽伏見の戦いが勃発、西郷は最終的に赤報隊を偽官軍として使い捨てにし、戊辰戦争に突き進んだ。
大河ドラマでは、戊辰戦争に関しては西郷の直ぐ下の弟、吉二郎が戦死した北越戦争が僅かに描かれただけで、悲惨な会津戦争や赤報隊の蛮行など、西郷の負の面には意識的に触れられなかったように思う。北越戦争では、当時の日本では数少ないガトリング銃を装備した長岡藩の河井継之助の奇襲攻撃を受け、長州の山縣有朋が瓢箪ぶら下げて褌一つで逃走したという。山縣は同郷の吉田松陰を神格化し、陸軍を創設した日本軍閥の祖であり、統帥権を独立させ、あの悪名高い『戦陣訓』の下敷きとなる軍人勅諭を作った。山縣が北越戦争で戦死していれば、後の陸軍はもっと真面で性格も穏当なものになっていただろう。権力は必ず腐敗すると断言したのは福沢諭吉だが、同じ“明治の元勲”でも自由民権運動の板垣退助や官吏の汚職に厳しかった江藤新平と違い、山縣に代表される狂信的な長州人は、国家権力や国庫を私物化し、長州汚職閥政治は絵に描いたような腐敗に塗れた。山縣が関係した山城屋事件と三谷三九郎事件、「三井の番頭」と西郷に皮肉られた井上馨の尾去沢鉱山事件など、その権力犯罪は典型的かつ大々的なものであった。維新三傑の一人で「逃げの小五郎」と言われた長州閥総元締の木戸孝允(桂小五郎)は、内政からも逃げ岩倉使節団に参加したが、帰国後は子分の山縣、伊藤博文、井上の汚職の後始末や自身も絡んでいた小野組転籍事件の揉み消しなど部下の救済に奔走せざるを得なかった。
質実な薩摩人だった西郷の長州汚職閥の腐敗に対する静かな怒りが、西南の役の遠因だが、西郷の後は山縣が、大久保の後は伊藤と、共に長州人が後継者になったのが長州閥政治の発端であり、近代日本の不幸であった。政や官が特定の民に便宜を図り、共に利益を得る長州型縁故政治の下、軍国日本は松陰が主張した対外侵出に没頭する。太平洋戦争の敗戦を経てもなお同じ政治形態が生き続けていることは、長州出身で反知性的な“背後どん”首相が惹き起こした森友加計問題の出鱈目ぶりを見れば明白である。
一方では、戊辰戦争に勝利した官軍により樹立された明治政府が、西高東低の教育や医療の格差(東日本の医師不足)を生じさせ、結果的に賊軍地域への原発集中をもたらした。もし戊辰戦争で幕府側が勝利していたら、大久保利通も大阪遷都説を説いていたように、大阪が政治の中心となって大阪弁が標準語になり、江戸が経済の都、京都が文化や伝統の要という“三都鼎立”が実現し、現在のような東京一極集中は避けられたのではないか。更に言えば、福島県は会津県となり、県都は会津若松市に、新潟県は長岡県で長岡市が県都になっていた可能性がある。
佐伯啓思京大名誉教授によると、明治150年は73+4+73年に区分されるという。山縣、伊藤、桂太郎らによる長州藩閥政治が、国粋主義の下、対外侵略へと暴走した挙げ句、73年目に太平洋戦争に突入し、4年間の地獄を見た。敗戦後、一からやり直しでひた走り73年が経過、この国は再び沈没しようとしている。昨今の国会審議の知的衰退ぶりはその象徴なのだという。先の大戦では大本営が情報を隠蔽偽装して敗戦に導き、現在の日本も“アベノミクス偽装”のためのGDP粉飾や基幹統計不正の果てに他国の信用を失い、今度こそ破滅に突き進むのではないだろうか。
(平成31年5月号)