勝井 丈美
2019年10月28日のお昼過ぎ、私は仙石線石巻駅に降り立った。2011年4月17日、新潟市医師会JMATとして石巻へ支援に赴いてから8年半が経っていた。3月11日が来るたびに、石巻の高台にある日和山公園から沿岸部を望む映像がテレビから流れた。それを目にする度に私たちの活動現場だった、住吉小学校、グループホーム「ぐらんす」、石巻女子高を思い出し、市内の復興のことがずっと気になっていた。
駅前でタクシーに乗り込み、ドライバーに石巻再訪の目的を告げた。かつての避難所への道すがら、ドライバーは「実は私の妻は当時病院の看護師をしていて、3月11日から2週間連絡が取れなくなりまして、てっきり死んだものと思っていたのです」と語り始めた。当時は携帯電話が不通だった。結局3週間目に妻の無事がわかったのだが、この夫婦はどんな気持ちでそれぞれの2週間を過ごしたのだろうか。
住吉小学校裏手のグループホーム「ぐらんす」を訪れると、当時の職員が一人だけ残っていて、話をすることができた。震災遺構に決まった門脇(かどのわき)小学校へも行ってみた。当時、津波の惨状を物語っていた校庭には盛り土がなされ、すぐ前の復興祈念公園の大規模工事は人手と金の不足から遅々として進まず、寂寥たる風景が広がっていた。
駅へ帰る道すがら、ドライバーは彼のタクシー会社の社長が当時、マスコミからの高額な長期貸し切り依頼を一切断って、地元住民のためのサービスに徹したことを語った。お金で動かない人もいるのだ。心が温かくなる。
駅に送ってもらい、ドライバーに礼を言うと「私もあの一番ひどかった時期を知っている人と話せてよかった」と言われた。私は再び仙石線に乗り、友人との合流地である松島へ向かった。