加藤 俊幸
西区内野の槇尾大橋の隣に赤色の西川・新川立体交差があることをご存知でしょうか。その治水工事の中心となった伊藤五郎左衛門の名をお聞きになったことはありますか。最近、大平徹郎先生が磯田道史著『無私の日本人』の紹介記事で、この新潟の偉業を挙げていたので紹介したい。
昭和30年の皇太子訪問を示す「新川暗閘」碑は、水利事業所跡にできたスーパーの裏になって見えにくくなっているが、川岸には懐かしい新川の風景パネルとともに、その治水工事の偉業が書かれている。今は幅広くなった新川の上を3代目の鉄製水路橋で西川を渡している印象を受けるが、実は逆で西蒲原の三潟の悪水を五十嵐浜へ放出する排水路の新川が最初の姿である。西川の川底に底樋(そこひ)という木枠管を埋設する暗閘という難工事で二つの川を立体交差させて、江戸時代の1820年に完成した。この大工事は支配者の長岡藩の命でなく、悪水に苦しむ農民達の強い要望から西蒲原の庄屋らの陳情と借金により行われたものである。その中心が中野小屋の割元役 伊藤五郎左衛門祐利と義父である。
新川開通後は西蒲原の低湿地帯は耕地となったが、3年間で人夫のべ200万人、六万両を要し、庄屋らに多額の借金が残った。とくに筆頭願人であった彼の借金は八百両にも上り、役録も質流れで失い完成直後に43歳で退役する。その後は田畑や庄屋屋敷を失って村を離れ、経を読む生活を送りながら62歳で没した。明治になって、その子孫は北海道などに渡り、その鶴居村で生まれたのが松蔭大学の伊藤重行教授、政治経済学者である。
この大事業を成し遂げた偉業と、その先人の苦労に感動する。そして今年、この偉業から丁度200年を迎えるので、新川の桜並木を歩いてみよう。外科の前田長生先生、中原八一市長さんご一緒しませんか。
(令和2年4月号)