阿部 志郎
8月15日(金曜日)
騒然としているバス後方へ振り向くと、背の高い外人のお父さんが4歳位の息子を抱え立ち上がっていた。子供をトイレに連れて行く途中、バスが威勢よく跳ね上がり男児の頭が天井に衝突したと判った。顔色も良く、周囲の乗客が男児の頭を擦り丹瘤を指摘している。意識消失も嘔吐もなく大事に至らなかったようだ。
8月16日(土曜日)
早朝のパース飛行場の片隅に小型飛行機が待っていた。オプショナルツアーなので、グループは私達だけである。北へ800キロ離れたモンキーマイヤー海岸に餌付けされた野生のイルカに会いに行く。機内食サンドが配られ、定員10名の小型機は朝焼けの空へトンボのように飛び立った。爆音を轟かせ、緑の大地を下に高度を上げてゆく。
左手にコバルトブルーのインド洋を眼下に、機体はやがて大きな雲に突入した。
中は風が強く真っ暗である。座席に座るおばさん事務員Kさんは恐怖のあまり背筋が伸び、首が硬直して無言である。旅慣れた旅行社添乗員T嬢は機体の揺れに体を委ね眠っている。機体は上昇気流の呷りで急上昇、気流が稀薄になると支えを失い急降下する。
パイロット席にドアはなく前方が丸見え。機体ドアの隙間から冷たい風が流れ込む。
彼は振り向き“空は地上と違い交通信号もガードレールもない。レーダーが目だ”と言わんばかりに指さした。“空中に浮いているから揺れて当たり前”と変になれて悟りの境地。草原に敷かれた一本の滑走路に無事着陸、マイクロバスでイルカの来る海岸へ向かう。
波穏やかな砂海岸に一本の桟橋、浜茶屋風店舗が4~5軒と簡素だ。8月の現地は冬で25度の快適さ。夏期は50度の灼熱で閉鎖されると言う。おばさん事務員Kさんがイルカ到来の知らせで波打ち際へ駆けて行く。イルカに餌をやる人だかりから帰り“皮膚がザラザラしてた”と興奮ぎみ。バスをハメリンプールの汀に寄せ、光合成で太古の空を酸素で満たした岩の様なストロマトライト(シアノバクテリアで構成のラン藻類)を眺める。
地球生命の黎明期を想像。小さな貝殻が作るシェルビーチへ砂丘様石灰の大地を踏み越え波打ち際に辿り着く。億単位の時間が作ったロマンチックな造型美に地球の神秘を体感。夜、パース郊外の外港フリーマントルでインド洋の潮騒を耳に、大衆パブで盛り上がる。遠い昔、フリーマントルはインド洋の対岸アフリカから奴隷が上陸させられた街である。
8月17日(日曜日)
パース滞在最終日、青空に映える商店街へお土産の買いだしに自由な時間を過ごした。
午後、空港到着。添乗員T嬢は各自にパスポートを手渡す。改札を通過し免税店前に集まれど、おばさん事務員Kさんの姿がない。若手事務員Yさん“Kさんが管理事務所へ連行された”と血相をかえてきた。添乗員T嬢“しまった”と言い残し管理室へ駆け出す。
事件の顛末:おばさん事務員Kさん(50歳台)が若手事務員Yさん(23歳)のパスポートを改札職員に提示したら、顔認証で嘘とわかり逮捕された。添乗員T嬢が一部のパスポートをアトランダムに渡し、改札を通過させた事に拠るものだった。
翌朝、飛行機から雲間にランドマーク富士山を見つけ、日本への帰還を実感した。
(令和2年4月号)