石塚 敏朗
朝9時、透析のため川に架かる橋の歩道を、自転車で病院へ向かって走った。早春の日差しが歩道の上に欄干の格子の影を投げかけている。湿った風が頬でさっと分かれ、甘い香りを残していった。
登り坂の途中の凸凹に自転車の前輪を乗り上げた、その時、老人とすれ違って急停車した。老人は杖を右手に、そろそろと降りて来る。傾斜で滑りでもしたら大変だ。道を譲るように右へ避けると、突然声をかけてきた。「ハナ、ですか?……」
老人はニコニコしているだけで、意味が判らない。この人、一体何なの?
認知症なのか。散歩中なのか。身なりは悪くない。黒い防寒コートに茶の帽子、老人なりに似合っている。しかも、惨めっぽい腰曲がりでないのが何よりだ。以前は、中小企業の社長くらいはやっていたかもと思わせた。
杖に身を乗せ、また話かけてきた。だが。ブツブツいうだけだ。やっぱり変な人なのだ。
老人がまた一歩近寄って、息の温みがわかるほどに、こちらの左耳ヘ口を寄せ、
「87……」、ときた。
「うん……?」、困った。
「ああ。87才のことですか」、と聞き返すと老人は顎をしゃくって肯いた。折角謎かけをしてやったのに、ようやく判ったか、といかにも満足そうな風である。自転車に乗ってきたのが同じ世代だったので、親しみが湧いたのかもしれない。
そして、老人は坂を下りかかった。
そうだったのか!。ようやく気がついた。〈87才である、このことを誇りにしていたのだ〉と。
周りが認めてくれなくても、今日の自分の持つ自信は、絶対に手放さないといった頑固そうな風情。
毎日、家族と一緒に暮らして幸せだろうに。が、老齢に陰る寂しさは消し難い。似たような仲間に出会って、親しさが芽生え、つい心が緩んでしまったのかもしれない。
「お気をつけて」、と振り返って声をかけたら、もう3歩ばかり坂を下り始めた。老人の黒い背中に日差しの明るさが温かく匂う。
自分も同じ87才、しっかりと視線を前に向け、電動付三輪車自転車のペダルに左足をグイッと踏み込んだ。
(令和2年4月号)