真柄 穎一
幼少の頃、自作の一本竿を持って鮒釣りに熱中した。中蒲原郡の田舎で生まれ育ったから、用水路、小川、川、沼、大河、全てを歩いて行ける範囲にあった。鯉、鯰、雷魚は釣る事が不可能だった。針掛かりしても糸を切られるか竿を折られるかだから。少年でも釣れたのはフナ、オイカワ、カワムツ、ニゴイ、ウグイ、タナゴ、イトヨ、等で、釣って持ち帰れば全て夕食の副食になった。さして美味ではなかったが、イトヨとオイカワだけは骨が硬いが好きだったし、鮒は季節毎の調理法があった。実家が医家だったから、鯉、鯰、雷魚、八目鰻は屡々頂いた。鯉はあらい、飴煮、鯉こくとして上等の一品となり、鯰は蒲焼、白焼きで鰻の代用品となり、白焼きに醤油は大好物だった。雷魚は東南アジアでは良く見掛けるが然程美味とは思わず。八目鰻は独特の香りがあり、匂、臭、どう表現したものか、困った副食だった。
もう1つ、心躍る楽しみは、用水路に架かる橋の下の土管の両方を板切れで塞ぎバケツで水を掻き出す漁だ。一人で可能な作業であり、何より頭数で分けなくとも良い点が嬉しかった。生来ケチなのだ。雑魚が大量に捕れた。時に大きな鯉、鯰も居た。70年経った今でも強いノスタルジアを感じる。
小学生になると行動範囲が広がり、家から自転車で阿賀の河口へ鯊釣り、内野の浜へ鱚釣りに行った。餌は釣り具屋で売られていたが、小学生には高価過ぎたから鯊には堆肥の中のミミズを、鱚には自分で海に入って浅蜊を採って小さく切り分けて用いた。足で探れば大浅蜊の2つ3つは簡単に採れた。ミミズでは決して鱚は釣れない事を経験的に知っている。また、アメリカザリガニの剥き身の砂糖漬けは浅蜊に劣るが少しは釣れる。内野の浜まで10km、阿賀まで20km程だが、頑張って自転車を漕いだ。鯊、鱚の天麩羅、鱚の塩焼きは大好物だった。今でも好物だが、魚屋で売られている物は決して口にしない。寿司屋の握りも然り。釣った物は香りが違う。鯊、鱚に限って言えば、寝かしては風味が落ちる。
学生時代には更に範囲が広がった。栃木の思川、岐阜の長良川、富山の庄川には同級生がいた。夏休みに遊びに行った。川には鮎がいた。この頃、鮎釣りの事は知っていたが経験はなく、気難しい年寄りの釣りと言う印象があった。友人等は当たり前の様に鮎に接し、好きなだけ食べさせてくれた。淡水魚なら何でも食べる当方にとっても鮎は格別の味がした。感激した。ビールも酒もしこたま飲んだ。鮎は塩焼きと思っていたが、セゴシ、田楽、天麩羅もある。また、新潟の三面では、白焼きに生姜醤油を用いる。折角の鮎の香と喧嘩する様であまり好まない。また、鮎のうるかは海鼠腸と同じ位死ぬ程好き。一人で黙ってビールでも酒でもワインでもどっぷり漬かる事は夢の世界。キャビアとシャンパン、鯔子と吟醸酒の組み合わせより格段に上等と思う。但し、琵琶湖のにごろ鮒の鮒寿司とブルゴーニュルージュとなると、チト、困る。両者ともに逸品だから。
本題に入る。
鮎の友釣りは日本独特の漁法で、知的な部分があり、初心者に大漁はないと言える。囮鮎の操作が難しい。負荷を減らすため出来るだけの細糸を用いる。極細の金属製の糸も存在する。結び方にも工夫が必要で、また、囮鮎のコントロール、例えば、糸の引き方、弛ませ方も難しい。無理に引っ張れば囮鮎は直ぐに弱る。水中で溺死することもある。緩ませ方が多すぎれば当たりが分からない。釣り師の意の儘に操る事は至難の技だ。優しく扱えば好き勝手な方に向かう。これが好結果を生む事もあるのだが。竿先の曲がり具合を見て、見なくても竿を握った感覚で囮鮎への負荷を推し量る。不規則な糸の動きを察知して、掛け針の不具合を知る様に努力する。囮鮎の位置を変えたい時、竿操作で行わず自分の立ち位置を変えてみるのも一法である。風が強くて糸への負荷が増せば竿を寝かせて軽減を図る。
友釣りの他に針を10本以上並べて水中を引くごろ掛け釣りもあるが、これは職漁師の釣りで友釣りとは一線を画す。
鮎釣りには季節感がある。初夏(解禁時)、盛夏、初秋(落ち鮎期)、夫々に面白み、味があり、また、趣がある。季節による空の高さ、雲の形、風の音と匂い、鳥、蝉の声、野に咲く花々。それら全てが鮎釣りに趣を添える。シーズンを通して言える事は、釣り上げた時に感じる鮎の匂いは魚の生臭さでなく、爽やかさであり、人によっては西瓜のようだと表現する。
初夏の天然遡上の魚体はタイリクバラタナゴの青の様に美しく輝き、背鰭は海の鯱の様に盛り上がり猛猛しい。但し、身は軟らかいので針掛かりが浅いと直ぐに逃げられてしまう。針掛かりを良くする為、三本から四本針に変えると効果はあるが、根掛かりし易くなり、それを外しに水中を歩けば鮎を散らす結果になる。従って近頃は四本針を使う事は少なく三本針のサイズを変える事で対処する様になった。
鶯の囀りを聞きながら魚信を待ち、猫柳の花の綿毛が風に漂う様を見れば雑念は、彼方に去る。戻り梅雨に会えば雨の匂いが心を洗う。
盛夏の釣りは躍動的である。縄張り意識が強まり、野鮎は必ず囮鮎に攻撃を仕掛けて来る。水中に銀色の影が突進して来たかと思う瞬間、竿全体にガガンと衝撃が走る。この時点から野鮎との駆け引きがはじまる。出来る限りの細いナイロン糸を用いているから長竿の利点を生かし、それでも切られそうな時は人間が川を下って耐える。鮎が水面に顔を出せばほぼ釣り人の勝ち。その逆に転倒したり、竿と糸が水平に伸されればプッツンと、鮎の勝ち。その勝負が楽しみの一つで、脈拍数は確実に増している。当たりが遠のけばポイント探しの移動。最も心掛ける事は、鮎の居る筈の川筋へ向かう事でなく釣り人が見逃す様な(竿抜けポイントと言う)場所を狙う事。河岸の半日良く日が当たって水苔が育ち、鮎にとって背後から他の鮎に攻撃されにくい場所。葦の根元、即ち、根掛かりし易いから釣り人が敬遠する場所。とても浅く、流れが緩く、鮎が居る訳がないと思う所。逆にとても早くて近付けない様な所。錘を用いれば可能な事もある。囮と仕掛けの全部を失う事も多いが。
長い付き合いの高齢の患者さんの孫さんが作ってくれたカヤの枝のタモに鮎を取り込む事が出来ればとても嬉しい。菅笠を被りこのタモを持てば(買えば極めて高価)、相当な上級者と見做される。本当はそれ程上手くない。寧ろ下手糞。
盛夏のミンミン蝉を聞き乍ら時折来る風の心地良さを楽しみ、住処の周囲にはもう見なくなったオニヤンマの飛翔を懐かしみ、暑ければ着衣ごとどっぷりと川に浸る。冷えて寒くなれば立ち上がる。どんな暑い夏も簡単に乗り切れる。時に、雷に脅され、仕方なく帰路に就く事もある。盆の精霊様、近所の年寄りはオショーレサマと呼ぶ、が、お立ちになる日、田舎では今でもお飾りを川に流す。一度に全部投げ捨てるのでなく、一つずつ流す。老婆が孫娘に付き添われ川端に座り、白茄子、胡瓜、隠元豆と野の花を流す様は日本の長い、昔からの風習を思い出させ、自身の祖父母がそうしていたから尚更、釣りの邪魔とか、環境汚染と言うよりも祖先を敬う行為に心を打たれる。
盛夏の鮎の背、尾鰭に飾り塩を置き、本来なら炭の遠赤が理想だが、暑くて不可能。それでも立ち昇る芳香は真夏の割烹の鮎焼き場の匂いと同じ。キンキンのビールを冷凍庫から出したジョッキでやればどんな高級店にも負けない味だ。
九月に入れば新潟ではすぐに落ち鮎の季節だ。抱卵が始まる。鰓蓋に小突起を生じ、追い星と言われ、雌の腹は焼くとオレンジ色の線が浮かび上がり、卵巣の充実した個体は美味。しかし、これ迄、頭から丸かじり出来たものが、骨が硬くなり、鱚や鯵の塩焼きと同じ様に身を解して食べる様になる。これは此れで趣がある。蓼酢も美味とあるが自分は知らない。多分、美味。秋桜と赤トンボを見ながら川に立っていると寒くて竿を持つ手が小刻みに震える。するとそれが伝わって竿先が大きく震える。この時期、大抵、北海道では初雪だ。彼岸になると新潟の彼等は産卵の為川を下る。各種の鷺が河原に居るから産卵が始まったと知らされる。終えると、両親は一生を終える。川で生まれた稚魚は海に下り、翌春、川を上る。鮎が年魚と言われるのはこの為だ。この時期、もう友釣りは終わりだ。彼岸になると下越は稲刈りの最盛期で、朝日村、黒川村の山手の米は魚沼に負けないものがある。二十年来通う囮屋の囲炉裏のある古民家へ行くと、鰍の櫛刺しと自慢の白米を勧められる。川底が見えない平野部で育った者にとって透明な川の魚が供されれば感激する。此処に8℃位に冷えたブルゴーニュの白があれば帝国ホテルのレストランに勝てる。絶対に負けない。この川漁師とはお互い名前も知らないが、解禁日に訪れると必ず笑顔で迎えてくれ、囮鮎二匹分の値でいつも三匹くれる。
また、或る日、雨の中囮鮎を買いに行くと、川の様子を見て来る様に言われ、濁流に気づかされ、礼を述べて帰路に就いたこともあった。
鮎釣りはある程度の体力を要す。流れに逆らって歩かねばならない。二十年前に比べれば歩行速度は格段に落ちた。それよりも、バランスを保つ事が下手になった。家人との約束で膝より深い所は行かないとしているが、しかし、そこにポイントがあれば自然と足が向く。いつも向かうのは胎内川だ。新潟市内から近く、電話の呼び出しがあれば、一時間で自宅に戻る。何時だったか、針掛かりした鮎と格闘している時に電話が鳴り、すみません、三十秒そのままで待って下さいと応答しているうちに鮎に逃げられた思い出もある。大河と違い押しが強くなく、初心者、高齢者でも比較的安全に釣りが出来る川だ。且つ、胎内の鮎は新潟のそれの中で最も旨いと言った釣り人が居た。新潟には鮎の川は多くあるし、北海道から九州まで各地自慢の鮎が居る筈だから判断出来ないが、上手く焼く事が出来た時に立ち昇る独特の芳香はその意見を肯定する根拠になり得る。
養殖鮎は鮎でない。異星から来たエイリアンだから。
今年は後期高齢者になる。川で溺れるやも知れず。それも人生だ。でも、やはりまだ死にたくない。生きている限り希望があるのだから。スペイン人から教わった言葉。
Es la vida. Donde hay vida, hay esperanza. の訳。エスペランサ、希望、期待は好きな単語の一つ。孫娘の名前はMomoko Esperanza。それを生んだ母親の名前は鮎子だ。
(令和2年4月号)