海津 省三
七十年も前の話であるが、小学五年生の頃に教師が突然、私の右うしろに坐っていたM君に向って「君のお母さんは妾だそうだな」と云い放った。M君の俯いた暗い顔を今も忘れない。
そもそも妾なる事がどう云う意味をなすのか全く理解出来なかったし、他の同級生達がヒソヒソと話をする様子を見ている彼にとってはまさに地獄だったと思う。現代であれば教育委員会なるものが飛び挙って空中分解するであろう。そんなことを皆の前でさらっと云ってしまう真意は今更わからないが、昭和時代をどんどん遡って大正、明治、江戸時代に来て、寺小屋で学んでいる様な錯覚がある。寺小屋と云っても吉田松陰先生が教える松下村塾で私が、朝廷を蔑にした時の大老、井伊直弼に楯突いて処刑されていたかも知れないし、逆に説得され彼に心酔して駕籠を担いで桜田門外で水戸藩士に斬り殺されていた、と云うのも芝居が出来過ぎていて、やっぱり七十年前で満足するしかないのだろう。私の従姉も父親がはっきりしない芸者の子供だったから、彼女が小学校の先生を嫌っていた気配を私も感じ取っていた。
そんなことがあって二~三週間後位だったと思う。同級生で仏壇屋の長男K君が、同じく同級生で床屋の次男と貧乏長屋の三男である私を引き連れてM君の家に遊びに行くことになった。雨が降っていた。階段を登った二階の部屋で何をして遊んだかは記憶にないが、しばらくするとM君のお母さんが紫色の雨合羽を着て唐傘を持ちながら二階に上がって来た。事情をM君から聞いた瞬間に雨合羽を脱ぐのももどかしく、廊下に置いてあった茶ダンスを開けて皿に盛られてあったお菓子を我々三人に差し出してくれた。その時の和服を着た色白で細面のお母さんの嬉しそうな顔を、映画のワンシーンを見る様に今でもはっきりと憶えている。この年になると増々彼女の心情が良くわかる。
奥手で幼い私にはM君をそんな方法で慰める事など到底思いつく筈がない。仏壇屋さんの長男K君は父親の仏教的影響を受けていたのかも知れない。『人を憂える』即ち他人を心配する優しさを言葉で説明するのは易しいが、実行するのは難しい。御陰で私の心の中で捨てられた祖国を取り戻された気持になれた。
遠い昔、御釈迦様の分身である帝釈天がひもじそうであわれな老人の恰好で彷徨っていると、様々な動物達が木の実等の食べ物を差し出してくれたが、一匹の兎だけは老人に上げるものが無かったので我が身を燃える焚き火の中に投じて食べてもらおうとした。しかし不思議にもその火は熱くなかったと云う話がある。勿論兎を助けたのは帝釈天の霊力であって、仏教独特な優しさと優しさのぶつかり合いを教えているものであろうが、それがいつの間にか仏壇屋の長男にはその優しさが普段の生活の中で身についたのかも知れない。因みに私の一家が借りていた貧乏長屋を出て漸く人並に一軒屋に引っ越すことになった時に、先祖代々の古過ぎる仏壇を処分して、新しい仏壇を入れようと云うことになった。古くても仏壇を簡単に捨てられるものではない。それなりの供養もしなければならないし、意外と厄介なものである。そこで思いついたのが、私の心の祖国を救ってくれたK君の父親に見て貰うのが一番良い事だろうとなって早速来ていただいた。家に入って仏壇を見るなり「捨てなさい‼あとはこちらでやりますから」との一言でこちらもすっきりして彼の所で売っている新品の仏壇を買って、それを今も大切に扱っている。
二~三才の頃に太平洋戦争が始まった。顔を合わせた時にはいつもニコニコして声を掛け頭を撫でてくれた向かい隣のおじさんが、ある日水の中には緑色の苔が生えて蚊の幼虫のボウフラが泳いでいる用水桶の蓋の上に立ち、胸に文字が書かれた巾広の襷を斜めに掛けて、集まった町内の皆に「勝って来るぞと勇ましく…」と軍歌で送り出された。しかし半年もしないうちに彼が戦死したことをその家の息子の一人から聞かされた。その時他人の父親なのに身内の様な一抹の空しさがいつまでも残った。世の無常を知り始めた頃だ。それにしても私の父親は同じ年格好なのに何故戦争に行かなくて良いのか。と近所から顰蹙を買っていたが、幼い私には全く説明が出来なかった。後で父に教えて貰った事情をまとめると、その頃に今はなくなった市内沼垂の日本石油精油所に勤務し、その中でも誰もやりたがらない一番危険な石油の精製係をやっていた。父はそこの係長だったと聞いていた。或る日原油を精製する時に使用する熱した硫酸が大量に飛び散って身体全体に掛かりそれが更に両眼にも入って、そこがpterygium(翼状片)になって遺った。その両眼の翼状片が徴兵命令の赤紙が届いた父の運命を大きく変えることとなる。指定された日時の徴兵検査で専門的知識を持たない衛生兵が小さな銃弾を指で持って少し離れた所で「これが見えるか」と聞かれた父は「はっきりとは見えません」と答えると、衛生兵が父に近づき両眼をじっと見て翼状片があるのを確かめてから結果不合格になった。実ははっきり見えないのは近視の為だったのであるが、眼鏡はまだその頃贅沢品であったから持っていなかった。持っていなくとも両眼に異常がなければ「眼鏡をかけろ」の一言で合格だったのであろうが、むしろ眼鏡を掛けていなかったから仕事のミスをして、硫酸の一部が眼に入ったのであるから、人生どうなるかわからないものである。その後は漸く眼鏡も買えるようになり、毎日の新聞を見て「この戦争は敗けるな」と云っていた。
或る日父が会社に行く時に当時家で飼っていた犬が付いて来たので道路の電柱に隠れたのを、たまたまパトロール中の警察官に挙動不審と思われすぐに交番に連行された。単なる近視なのに運良く徴兵から免れ、家庭内とは云え「この戦争は敗けるな」と呟いているのがどこかでばれて『売国奴』のレッテルが貼られて刑務所送りになるのかと一瞬頭を過ったが、必死に飼い犬のせいだと説明して無事に釈放された。数ヶ月後にそれまで色々あった事とは関係なく、会社の都合で北海道の室蘭に転勤になった。或る日、前夜の当直が明けて宿舎の部屋で眠っていると窓ガラスがバリバリと割れる音と同時に寝ていた頭の上でドスドスと音がしたので眼が醒めた。うしろを振り返ると壁に横一直線に五~六ケの穴があいていた。もし起きていて壁にもたれ掛かったり、坐ってお茶でも飲んでいたりしたらまちがいなく命はなかったであろう程の極めて凄まじい洗礼だった。米軍の空母から飛び立った数機の艦載機が室蘭の精油所を襲って来た時に父の宿舎も序でに機銃掃射していったと思われる。アメリカの空軍将校に聞いたことがあるが、戦闘機のパイロットは積んだ銃弾を全て使って帰らないと上官に怒られるので、余った弾で放牧された牛等を狙い打ちして全部なくなってから帰る場合があったそうだ。とにかく父は精油所が爆撃されて使えなくなったので、怪我も無く故郷新潟に帰還し、父の部屋を襲った艦載機のパイロットも多分上官に叱られることも無く自ら所属する空母に帰艦したのであろう。誰にも『売国奴』と罵られることもなく父の戦争はここで終った。
これも戦後間もなく七十年以上前の話になるが、自宅が万代橋に比較的近かったので何かと橋を見る機会が多かった。その頃の冬は-10℃位は良くあって、とにかく今と比べたら寒かった。雪も多くて市内でも二~三メートル積もって狭い路地から自宅の庭に転げ落ちたこともある。上流方面で積もった雪を信濃川に捨てるのでそれが氷山の様に流れて来て、まだ関屋分水もなかった時代であるから水量も多く、万代橋の上流側に雪の塊が詰まった状態になった所を人が歩いて渡って今のホテルオークラ側で上陸するのをモノクロの映画を見ている様なはっきりとした記憶に残っている。又、立て付けの良くない長屋に住んでいたので、寒い日の朝起きた時に窓の戸の隙間から入って来て畳の上で円錐状に積った雪を手で摘み上げてゴミ箱に捨てた等と云うことは日常茶飯事であった。それに較べ今年の冬の暖かさは新潟に住んでいるとは思えない。暖かければ良いと云うものではない。
昨年の夏のお盆休みに孫を四人程連れて関屋浜に年中行事になっている海水浴に行った。私は海で泳がないが監視役である。駐車場に着いて車から降りた時に警備員の二人が「少し風があるからいいけど、なかったら死ぬな」とぼやいていた。私は心の中で『風があっても死ぬな』と半分冗談のつもりだったが、砂浜を素足で歩くのはまずいと思った。車の中に置いて来た靴を取りに戻ってそれを履いて海辺にようやく辿り着いた。これでは山歩きの方がずっと楽だ。子供達は海水に入って遊んでおれば楽しいだろうが、私の方は海水に脚を漬けて監視するだけで面白くもない。そのうち浜茶屋のスピーカーが「唯今の気温40.3℃海水温は25.6℃です」と放送があった。私は-5℃から40℃まで耐えられたがそれ以上は無理である。フェーン現象の為とは云え今まで海岸で経験したことの無い暑さである。これは頂度太平洋と云う大きな鍋に喩えると、その底のあたりで祖国等どうなっても良いと思っている悪魔達が石油や石炭等の化石燃料ばかりか、現在酸素を発生してくれていて人類の味方である材木や植物までも燃やして煮えたぎらせているのではないかと考えてしまう。それを止めてくれる神様はやはり『帝釈天』位しかいないのだろう。しかし神仏に頼るようになったら地球も終わりである。終わりと云えば身近な所で日本海がお風呂の様な湯加減になると台風が発生して新潟を襲って来る。シベリヤの森林が消えて砂漠化する。これを天が落ちて来るのではないかと心配する杞憂と思うかどうかだが、今オーストラリヤの森林の一部であるが燃え尽きて多分砂漠化するであろうと考えられている。オーストラリヤに最も近い南極の一部の雪氷が溶け出している。又雨が降ったりして緑地帯が見られるようになって来たそうである。
世界史上起こるべくして起きたイギリスの華々しい産業革命から甚大なCO2が発生し、人は車でものを考えて世界経済を回して来た。それは殆んど思想や哲学となって固定している。我々はこれからどうすれば良いのか。ノーベル賞受賞者の𠮷野彰氏に聞きたいのであるが、まずBenjamin Franklin(1706~1790)が雷を電気現象と証明して以来手付かずのままである巨大な静電気を誘導して(+)と(-)の電気として蓄電出来ないかどうか。そしてCO2を植物の光合成にだけ任せないで何とか電力で大量に酸素を取り出せないものなのかの二つである。もう排気ガスのCO2を押さえただけでは間に合わない。戦争がどうのこうの、ミサイルや核がどうのこうのと騒いでいる場合ではない。重要なのは誰が地球と云う大きな祖国を救うかである。
大学の一般教養の時代にドイツ語の先生の下宿に五~六人で遊びに行ったことがあった。
その時Schubertの『冬の旅』を聞かせて貰った。堅い会話が続いて曲が最終章の『Der Leiermann』(辻音楽師)に差し掛かった時に、それまで殆んど余計な事を喋らなかった私が突然「この曲は人類の最後を暗示している様ですね」と学生にしては生意気な発言をしたら先生が「なにをー」と私を見て睨みつけられたと思った。その時代は米ソの核戦争が始まるかも知れない暗い空気が漂う一抹の不安を皆が持っていた。そんな時に私は先生に不快感を与えてしまったのかなと思いつつ帰宅した。あとでわかったことだが、私のことをさっぱりドイツ語も覚えてくれない学生にしては妙な感性を持っているなあ、とその当時結婚したばかりの奥さんに話していたそうである。でもこう云うことが本当の意味の一般教養教育なのかな、と思っている。
昨今のコロナ騒ぎで車も人も見ない新潟駅北口を歩いていると、普段なら繁華街である筈の通りがシャッターも閉まっていて、まるで時が遡って西部劇のピストルを持った数人の悪人達が馬に乗って私の方に向かって来て、打ちかえしても結局殺されるシーンが頭に浮かぶ。この時の街の空間と昔の時間が一致するAlbert Einstein(1879~1955)の相対性理論はこんなことなのかなと想像する一瞬を経験した。もっとわかり易く説明すると、一面雪景色の坂を雪だるまがころげ落ちる時にまわりの雪、即ち雪景色と云う空間を巻き込んでゆくと巻き込まれた雪の量とかかった時間が一致すると考えたのではないか。
車の動きが減って石油の使用量が激減しても悠久の過去の時間からすれば極く僅かなことで、今年の夏は少しは涼しくなるのだろうかと期待する方が無理である。