真柄 穎一
東京の私学を卒業。新潟大学の前期研修医として第1、2、3内科に、秋田赤十字病院に1年間後期研修医として在籍した。その後10年間、新大第2内科で主に急性腎不全(現在の急性腎障害)の透析療法(腹膜、血液透析)に従事した。済生会三条病院に10年間勤務し、父の突然の死の為実家に呼び戻され、平成のほぼ全部を開業医として過ごし、72歳で100年続いた医院を閉じ、現在は娘夫婦が開設したクリニックで勤務の形態を取っている。
1916(大正5)年、祖父が診療所を開設、当初の往診は人力車で、昭和に入ってからはFordのV8、運転手付きで。仕事、従業員、患者、私生活全てに厳格であったと聞いている。孫に当たる小生には優しさ一辺倒で、その孫を東京のKという古い、名門の私立大学医学部に入れ、その後、米国のMayo Clinicで研修させようと本気で考えていたらしい。従って、東京の他の私立医科大学に入学しても何ら反応はなく、将来の当院の行く末を案じていたであろうと容易に想像がつく。
父がこの診療所を1953年に継承した。それ迄新潟市の西堀で産婦人科を営んでいたが南区の診療所に転居してから次第に仕事が忙しくなり、死ぬ日の午前まで働いていた。その父が馬車馬の様に働いた人生だったとポツリと言った事があった。悲しい様な、申し訳ない様な気がした。現在でも同じ思いでいる。
母校の同級生の忠告を無視して(国立医学部附属病院でお前が通用する訳がないと)、前期研修に入ると、同じ世代の昭和43、44、45年卒の研修医が同じ立場で同等に接してくれた事が自分を奮い立たせてくれた。無論、助けられる一方の状態であったが、一緒に研修する事を許された事が嬉しかった。また、抜群の指導医に恵まれ(語録が沢山残っている)、第2から第3内科に研修の場を移してからも、第2内科の受け持ち患者の診療、回診に加わる様にと提案された事は喜びであった。また、祖父が第2内科に所属していた事もあり、当然の如く、そこで医局員(無給の)として在籍する事になった。可愛がられた。出来の悪い子が可愛がられる理屈で。
医者になって間も無い頃、父の代わりに往診に行った事があった。吹雪の夜、年寄りの発熱に行ってみると、この夫婦の住まいは見るからに明らかに、昔は牛小屋で、無論入り口は作り替えてあるが、少しの暖房しか無く、蒲団の上からモウモウと水蒸気が昇り、粉雪の舞い込む室内は、豊かな環境に居る自分にとって、別次元を見る様な、驚きと少しの憐憫と、悲しい物を見た様な、見てはいけない物を見た様な、複雑な、しかし、これも現実なのだと思わされる光景に出会った。今も深く印象に残っているし、また、これが自分の医療の原点だったのだろうと思う事がある。
診療の思い出は沢山あるが、火災で重度の熱傷の後、急性腎不全を併発し、結局救命出来なかった症例の病理解剖で、当時、威厳のある近寄り難い、良い意味で恐れられていた教授が、開始に当たり主治医は一歩前に出よとの指示。あちゃー、また何か叱られると覚悟していると、主治医、ご苦労であった、の一言。緊張が一挙に解け、その場にへたり込む思いであった。
勤務医時代は忙しかった。午前の外来が3時、4時までかかる事が珍しくも無かった。昼食休みは取らなかった。また、多い時は30名の入院も受け持ったが、本当に診ていたのだろうか。時に往診の依頼があれば応じた。何故、病院に勤務していたのか。開業の練習のつもりだったから。だから忙しくても何の苦もなく、夜中の往診も厭わなかった。
医者になった頃、勤務の頃、開業の頃、夫々患者、患者さん、患者様と呼称が変化した。日本の医療界では昔から医者が患者を診てやるの意識の時代が長かった。医者が診療室でタバコを吸いながら、君、タバコは止めたまえと診察中に言う時代を経験した。勤務医の頃、世の中は未だ患者という表現が一般的な時代に、同僚が、患者さんという表現を使い始めたと記憶している。当初、何となく少しだけ違和感を持ったが、医師として、人間として遥かに自分より優れた人格に惹かれ、以後その医師と話す時は患者さんと表現する様になった。現在、表面上、世間体上、患者様と表現している感を個人的には持っているが、医者同志、医療者間で、検討会で話す時に様づけで表現するのだろうか。今は勤務医であるが、検討会も無く、医者同志で話す機会も無く、実情は知らない。
今年正月、家人の一寸した入院騒ぎで市内の救急病院で経験したが、コメディカル、医師、看護師、薬剤師とも対応が自分の頃とはまるで違っている事に気付き、非常に驚いたと共に敬服させられた。
勤務医として出来るだけ来る人を拒まず、何でも診るの気持ちで診療に当たった。バリウム造影が主流の時代であったが、必要に迫られ、存在する内科的内視鏡、胃、大腸ファイバー、膵、胆管造影、気管支ファイバー等、市内の同僚に教えられながら徐々に症例数を増した。独自の方法で施行したから、後に誤りを指摘される事が多々あった。初めて幽門輪を越えてVater乳頭を見た時は嬉しかったし、助手に付いた看護師さんも一緒に喜んでくれた。
開業の時代。外来と往診を2本柱とした。就寝する時、必ず枕元に電話機を置いた。外出する時、当初はポケベル、後に携帯に支配された。電話の転送機能を使って24時間対応した。往診から帰って、今行って来た村の別の患家からの往診依頼があったと伝えられる辛さからは解放された。家族よりも携帯電話と一緒に居る時間が遥かに多かった。寝る時もそれを抱いていたのだから。
開業当初、患者さんに屡々言われた事。ずっとオメエの所にかかっているのだ、オメエで三代目だ、しっかり頼むぜ、と。はいと答えるのが精一杯だった。だから頑張った。ある年の盆休み、13日の午前の診療を終えて14、15日の連休、他の医院も皆休みだから、一番若い者が当番医の役目を果たすのが当然という時代だったし、自分もそう思っていたから夜間救急が大当たり、ロクに寝ずの2日間を経験した。
昭和の終わり、平成の始め頃、受診する人の中で自殺者が多くて悩んだ。新潟県の自殺率が高い事は承知していたし、バブル経済の破綻もあったが、自分の所で多発した事を悩んだ。検死に行く事が辛かった。診療態度に落ち度があるのか、精神科医に相談した事もあった。俺、疲れた。世の中よっぱらになった。と言って来る人は要注意である事、自殺する確率が高い事を学習させられた。
介護保険、訪問介護が始まった。余り肯定的に捉えず静観した。自分の仕事を取られる様な気がしたから。今は違う、助けられている。外来診療に集中出来るし、往診も以前よりは楽になった。一日の内に同じ患家に複数回往診するのは普通の事だった。熱が下がらないとか、点滴が漏れた、便が出ない、眩暈が治らない、息が出来ないから電話してみたとか、理由は幾らでもあった。医院の玄関に杖を忘れたから来る時ついでに持って来てくれと言う依頼もあった。腹が立たない振りをして駆けつけた。
日常診療の基本は何でも診る。小児科も小外科も肘内障、顎関節脱臼も、角膜異物、胃洗浄、喉のトゲ、のどに詰まった餅も、自転車で来た患者さんが急変して死亡した事も、AEDの無い時代だから心マッサージしかなかった。首吊りの現場でオロオロして居る家人への事後の指示、支離滅裂な事を言う人の説得、夫婦喧嘩の仲裁も、ペットの痙攣発作までも求められるまま応じた。夜中の疝痛発作でNSAID、ソセ・アタ、オピオイドで一向に改善せず、自身で市内の各病院を探すも、専門外とか、泌尿器科医不在、他の急患の対応中とか、受け入れて貰えず、夜明けまで患者さんの背中をさすった事もあった。
外来、入院、往診とも出来るだけ話を聞く事を心掛けた。相手の目を見て。この3年位、苦手の電カルのキーボード入力を指1本ずつで入力したとしても話を聞く様にしている。92歳のお婆さんの話。85歳の時、難治性の噴門部の潰瘍で、生検でクラス5の報告を受けた。消化器内科経由外科へと思っていた所、手術は受けたくないと病院から帰ってきた。当院でも説得したが、頑として拒否。本人の話を聞き、その倅と小生と3人で話し合い、本人の意思を尊重する事も選択肢の1つと考え、受けない事を合意。内科の主治医として出来る事は全てやる、死ぬまで面倒を見ると、本人には伝えないが、腹をくくる。7年後の当院の内視鏡所見はあまり憎悪していない印象。手術が良かったのかどうか、本人か主治医かどちらが先に死ぬか競争だが、残った方がほっとするに違いない。
年寄りの診療はこちらも末期高齢者だから、後期高齢者とも言うらしい、或る程度本当の事が言える。俺、いつ迄生きるのだろうか。当地では男女ともオレと表現する。死ぬまでに決まっていますと答える。どうすれば長生き出来るだろうか。そんな事考えていると100歳になっても死ねませんよ。自転車で転んで腰が痛い。自転車は大丈夫でしたか。目、耳が弱って来ました。いつまでも良く見えたり聞こえたりしたら若いもんが困るでしょう。近頃痩せて骨と皮だけになりました。いいや、肉も少し残っています。何時までもパツパツだったら若いもんに妬まれるよ。世の中少し疲れました。大丈夫、必ずお迎えが来ます。それまでゆっくりしてください。もし来たら、今忙しいとか、少し寒いから春まで待って下さいとか言い訳は自分で考えて下さい。新潟の青山に何でも治す病院が1軒だけある。希望すれば何時でも紹介状を書きます。少し熱い所だと言う話だけどネ。人と状態と条件を間違うとまずい雰囲気になるので、普通の会話をすることもある。
50年間、医者をやって来て、何か良い事をしたのだろうか、役に立った事があったのだろうか。物事を肯定的に捉える様に、また、なるべく他人に頼らず自分で考え決断を下す様に生きて来たつもりであるが、祖父の様な威厳の欠片もないし、父の様に馬車馬の様に働いた覚えもない。正直な所何も考えつかない。人生の終わりの間際にふっと何か思い浮かぶのかも知れない。
好きだった一人旅の幻影と共に。