佐藤 舜也
看護学校老人看護学の教科書に、年をとると豪華なバラよりも道端の蒲公英のほうが好ましくなるという記載を見つけた。若い時にはわからない感覚というのがあると歳をとってみて思う。病院の駐車場の舗装の片隅に小さく黄色のカタバミが咲いているのに最近気が付いた。おそらく前からあったのだと思う。秋も深くなって山の花が淋しくなるころ野菊のほかはトリカブト、シシウドなどの咲き残りになったとき、山道の傍らに小さな黄色のカタバミをみつけた。この時期にこんなところに咲いているのだなと改めて認識した。もう半世紀も同じところに来ているのに今まで気が付かなかったのは、歳をとるまで小さいものに気が向いていなかったのかと思う。
病院の駐車場の片隅にあるカタバミは出勤時には咲いていないし、退所時にも花は閉じている。退所時にはちょうど建物の日陰になるので、花の咲いているのをみることはないのだが、たまに休日の晴れた昼の日向になっている時間に見ると黄色の小さな花を咲かせている。日陰の時間になると黄色の花を閉じるようで目立たなくなる。舗装しているところの隅で土などほとんどない所なので、どうして一日に開閉を繰り返すエネルギーがあるのだろうか不思議である。草の大きさからすると花や時には草まで開閉するのに必要なエネルギーはどうして得られるのだろうか。土がないくらいの隙間なので、根からだけの栄養補給ではとても足りそうでない。
これらの雑草の花をみていると、人間にはとてもかなわない逞しい生存能力がありそうだ。どんな天変地変があっても、人類が滅亡したあとでもこれらの雑草は生き残るのだろうなと思う。広範囲の山火事で動物が全滅しても動けないはずの植物は再生する。人類が万物の頂点に位するというのは、妄想にすぎないのでないかとコロナに揺れるこの頃の思いである。ウイルスに振り回されている人類を雑草はどのように見えているのだろうか。
(令和2年10月号)