加藤 俊幸
内視鏡検査では1枚の写真が診断を決めることがある。山からの眺望や災害の写真が、全てを語ることがある。1枚の写真の与える衝撃は大きい。
横田めぐみさんの写真のなかでも、制服を着てうつろな視線を送るあの1枚を見るたびに、本当につらくなる。知らない国に連れていかれて数日後、何が起きたかわからない不安がいっぱい溢れていて胸を打つ。さらに見慣れた母校寄居の女子制服である。
私が研修医の1977年、めぐみさんは部活帰りに行方不明となった。父滋さんは転勤を延ばして待っておられたが、川崎へ移られ1993年に定年。そして1997年拉致が発覚すると、家族会を結成し滋さんが代表になられた。ご夫妻は大切な家族写真を公開するとともに署名活動や講演を重ねて訴え続けてこられたことはご周知のとおり。新潟への転勤がなければ、子供さんに囲まれた穏やかな老後が送れたはずなのに。川崎の同じマンションに住む方々は「あさがおの会」として支援を続けて下さった。
拉致現場は遊び親しんだ寄居浜である。同窓会は中学校存続から拉致問題への運動を続けてきたが、あの入学時に満開で写っていた桜も、この春には枝ぶりが減り樹勢が弱ってきており43年という長い時間を痛感していた。
その桜をもう一度見ることなく、滋さんは6月87歳で川崎の病院で亡くなられた。それを伝える翌朝の日報の1面には、あの忘れられないうつろな表情のめぐみさんの写真が載っていた。
そして、川崎の病院には朝倉 均名誉教授がお仕事されていたのも、新潟との縁を感じた。
(令和2年10月号)