蒲原 宏
医薬の変転は早い。法律用語の朝令暮改があてはまるのが99%の医薬。かつて強心、血管緊張、呼吸中枢興奮、吃逆止剤として武田製薬(後に吉富製薬)のドル箱になった「ビタカンファー」は医家の常備薬だった。パイ及びパラオキシカンファが強心作用があると昭和6年頃から東大の田村憲造、朝比奈泰彦、石館守三、新潟医大の木原玉汝の共同研究で開発し、学士院賞が授与された代物。戦後、昭和50年頃この学説が誤りと確定され医療現場から消えてしまった。カルニゲンがこれに代ったが間もなく消えた。学士院賞の選定もいい加減な時代であった。50年余にわたって薬屋と医者の懐を潤したことだけは確かである。
COVID-19の重症者にセファランチン(Cepharanthine)が有効だと発表があった。この薬は戦時中に東大の伝研で長谷川秀治(1898~1981)と薬学科の近藤平三郎との共同研究で台湾のタマサキツヅラフジ(Stephania cepharantha)の根に含まれるアルカロイドを抽出したのが昭和10年。結核の特効薬だとの実験が新潟医大でも分担していた。昭和18年に「結核の化学療法に関する研究」で朝日賞を受賞した。その時、新潟医大病理学の赤崎兼義(1903~1989)教授が私ら学生に「長谷川さんはセファランチンが結核に効くということで三井報恩会からの資金援助で化学療法研究会・その附属病院を設立したが、十分でなかった。陸軍部内でも兵隊の結核患者が多発し、各地に軍人療養所を設立していた。厚生大臣の小泉親彦(1884~1945)のつてで東條英機首相に研究費予算の獲得を直訴したんですよ。
事情を聞いた首相は『よくわかった。その方面に善処しよう。差しあたり個人的ではあるが、手元にお金があるので持って行きたまえ』と机の引出しから札束を出して、新聞紙にくるんで渡してくれたんです。帰って調べたら70万円あったそうです。私は長谷川さんから直接聞いて驚きました」と話された。
現在の物価からすると7000万円以上であろうか。一国の首相はいつの時代でも自由に使える金がある。
しかしセファランチンは結核の特効薬ではなかった。間違った朝日賞だった。戦後、化研生薬で製造がつづけられ、円形脱毛症に効くとか、放射線による白血球減少症に効くとか、BCG潰瘍や胃・十二指腸潰瘍に効くとされ、昭和60年頃には、蝮に咬まれた時、血清がとどくまでの応急処置として注射をすると軽症化できると報告されていた。去痰作用があるので気管支喘息にも用いると効くとの報告もある。
COVID-19の治療法として姿を現わしてきたのも一理ある。その効果を期待したい。
結核の特効薬が何時の間にやら化けて、別の効能書で病院常用処方集に収載されている。泉下で故東條英機首相は首をかしげて苦笑しているかも知れない。
もう一つ大化けした薬に非バルビツール酸系睡眠薬サリドマイド(Thalidomide)がある。
1956年に初めて臨床応用され、副作用少なく、持続性のある睡眠薬として珍重されたが、妊婦が妊娠初期にそれを服用するとアザラシ肢症などの奇形児が生まれる可能性があることを1961年11月西ドイツの小児科医レンツ(Lenz)によって指摘された。
1958年ドイツではコンテルガン、日本ではイソミンの商品名で発売された。ドイツではレンツの報告後6日で発売が停止された。日本では行政処置が遅れ1962年9月に禁止されたが、これによる奇形児は死亡例を含め約1200人発生。全国62の家族が国と製薬会社に損害賠償訴訟を起こした。病院常用処方集、薬物療法書からサリドマイドの名は消えた。
ベルギー、オランダ、イギリスでも発売停止、アメリカもFDAで製造を禁止したので、この薬は永久に医薬の世界から抹殺されたと思っていた。
ところが、1990年頃からサリドマイドが多発性骨髄腫の治療に効果が期待できるという論文が発表されるようになった。筆者が医療の現場で出会った多発性骨髄腫は多発性病的骨折を伴い生の終るまで悲惨な状態を見てきただけに朗報であった。毒薬が済生の薬として50年後に化けて現れた思いであった。白血病を初め化学療法の発達と成果は一昔前に悪戦苦闘、敗戦を続けてきた筆者にとっては驚くばかりである。長生きしたお陰で昔の何々賞が不確定であり、毒薬が良薬に化けることを知ることができ、薬にも温故知新のあることを知った。
俗に「馬鹿と薬は使い方による」という古い諺がある。薬も人間と同じで時間的経過の中で即効だけを期待せずに化けさせてみる試みを忘れてはならぬように思う。
薬は病む者のためにある。その化ける可能性を探究する努力を節約してはいけないと思う。
(令和2年11月号)