蒲原 宏
官立新潟医学専門学校の初代生理学教授は藤田敏彦先生(1877~1965)で明治43年(1910)から大正6年(1917)まで在任し東北帝大に移られた。実弟が第2次大戦中文部大臣をやり終戦時自決した東京帝大生理学の橋田邦彦教授(1882~1945)である。
藤田教授は日本に感覚生理学を導入し、暗順応、日本語の構音機構に関する業績をあげているが、知名度は弟の橋田のため隠れてしまっている。
藤田先生の後を継いだ2代目が横田武三先生(1886~1945)である。
明治19年(1886)12月3日埼玉県生まれ。明治44年(1911)九州帝国大学医学部をトップで卒業。銀時計を授与された。生理学を専攻して石原誠教授(1879~1938)の門下生となった。
当時、外遊から帰国した石原教授は弦線電流計(心電計)を持ち帰ったが、自分以外には誰にも使用させなかった。この器械はオランダのライデン大学のエイントーフエン(Willem Einthoven 1860~1927)が発明し、大正13年(1924)にノーベル生理学・医学賞を受賞するのであるが、受賞以前の最新の医療検査器機であった。弦線電流計を使わせてもらえないことに憤慨した横田は、それを自作するには物理学を勉強しなおさなければと考え、石原の門下を辞して東京帝国大学理学部物理学科に学士入学し、大正4年(1915)に卒業した。
在学中にまだ女学生であったいとこと結婚。子供を背負い女学生の夫人と手をつないで歩いて通学するので学内の評判になったという逸話が伝えられている。
藤田教授の後任として新潟医学専門学校に赴任したが、間もなく医科大学に昇格するということで海外研修のため、大正10年(1921)から12年(1923)まで文部省留学生としてヨーロッパ、主としてフランスで研修した。英、独、仏、オランダ語、ラテン語、サンスクリットをよくした。
筆者も昭和16年(1941)から19年(1944)6月まで課外講義でラテン語、ドイツ語、フランス語を教えていただいた。
ジーゲリスト(Sigerist)の『大医学者(Grosse Ärzte)』、シュペングラ(Spengler)の『世界観(Weltanschauung)』などのテキストで教えていただいたが、講義の合間に留学時代の話を楽しく聞いた。
御自慢はエイントーフエンの弦線電流計を持ち帰ったこと。「皆、ドイツ語読みでアイントーフエンというが、人名はちゃんとその国の言葉で発音せにゃいかん。オランダ語ではエイントーフエンと発音したまえ」とのこと。
エイントーフエンがノーベル賞を受賞する前に新潟へ器機を舶来し、心電図をとった。大正12年のことである。
両手、両足を生理的食塩水を満した陶製の桶の中に入れて心臓の電気現象を誘導し撮影するもので、生理学実習の時に私は被験者になった。1967年にライデンの自然科学博物館で全く同じ器械がエイントーフエンのノーベル医学賞メダルと共に展示されていたのを見ることができた。新潟に舶来したものは戦時中の生理学教室疎開のさい破却されてしまったという。
新潟県最初の心電計、それもエイントーフエンのオリジナルの歴史的器機は、先生が亡くなられて間もなく破却されてしまった。まことに惜しい。
昭和20年6月以降のことというから、先生の死と共に器機もこの世から永久に消えたのである。
─閑話休題─
大正も終りに近い90数年前に新潟で初めて心臓の電気が映像として見れるようにしたという自慢のお土産話の他にもう一つ自慢の土産話が西洋式水洗トイレを輸入したのだとお聞きして驚いた。
生理学教室での課外語学講義の時にこのトイレを使わせていただいた記憶があるが、何国製であったのかはお聞きしなかった。学内で戦前、戦中に西洋式水洗トイレのあったのは生理学教室だけであった。
恐らく新潟県最初の水洗トイレだったであろう。
これも戦時の建物疎開のさいに破棄されてしまった。先生は先進的な合理主義者であった。
(令和3年3月号)