八木澤 久美子
昭和62年5月、私は医師になりました。そこから内科の研修が始まりました。
大学病院で研修し、そのかたわら生活のためにアルバイトで病院当直やら内科外来やらいろいろ行かせていただき診療していました。
これはその頃の思い出話の一つです。
場所は忘れてしまいましたが、どこかの診療所の内科外来でした。古い建物でしたが清潔感あふれる少し広めの診察室でした。すっきりと洗濯して糊のきいたベッドカバーや椅子カバーなどがほどこされていました。診察後の手を洗うステンレスの洗面器とその下にかけられた白いタオルも新品でした。
一人の年配のご婦人が入ってこられました。和装でした。高血圧で血圧薬をもらいにきたとおっしゃいました。若かった私はなんで内科外来に着物着てくるかなと思いました。脱ぎ着に時間がかかるでしょう。ところが胸部聴診の時、がばっと大きく着物を開き前胸部を出してくれました。難なく聴診ができたのです。もちろん腕まくりもスムーズで血圧測定も難なくできました。診察が終わると、入口わきのカーテンで仕切られた脱衣スペースでささっとすばやい動作で(カーテン内なので見えませんでしたが、想像です)お着物を直し、驚くほど速いスピードでさっさと退室していきました。今となっては、はっきりと思い出せませんが着ていたお着物はおそらく織りのよい紬だったのでは、と思われます。その時のササッ、シャシャシャというすがすがしい衣ずれの音、ほのかな匂い袋と樟脳の混ざった香り、耳に鼻に記憶に残りました。その当時、お医者様にかかる時はせいいっぱいのおしゃれをしてくる方が多くいらっしゃった気がします。和装で来院される方は少ないとはいえ、いらっしゃいました。ですが、平成、令和と今では皆無です。
話は現在に戻します。和装でいらっしゃる方は少なくなりましたが、お着物をリメイクして、ジャケットやベストで来られる方は増えました。リメイクするくらいですから質のよい大切なお着物だったのでしょう。先日来られた患者さんは大島紬(と思われる)で、しっかりした織りのお着物で、長めのベストにリメイクして着こなされていました。診察中にもかかわらず思わず、「素敵なお着物ですね」と声をかけてしまいました。その方は「はあ、何ですって?耳が聞こえないものですから」と言われました。ついていた看護師が「『素敵なお着物ですねえ』と先生が言っておられますよーー」と耳のそばで繰り返してくれました。「まあ、それはそれは」とその方は、はにかみながら答えられました。
先日テレビである年配の女優さんが、若い女優さんに着物の着方のポイントを教えてあげたという話をされていました。昔の人はみな着物を着ていてそれでも雑巾がけなどの激しい動作をしていたのです。だとすると、着崩れしない、はたまた着崩れてもすぐ直せるワザがあったのでしょう。医師になりたての頃、お着物でいらっしゃった患者さんがなぜあんなにも素早く着物の乱れを直して診察室を出ていったのか、その時は不思議でしたが、謎がとけたような気がしました。今でも時々思い出す、すがすがしい衣擦れの音、ほのかな香り、草履の音。今となってははるか昔の、のどかなのどかな昭和の思い出話、診察室の風景です。
(令和3年3月号)