松浦 恵子
『新潟市医師会報』発刊50周年600号の時に、編集委員に加えて頂いているご縁を、もったいなくもありがたくかみしめている私です。
私の曾祖母はミヨといい、私が中学校3年の時に88歳で亡くなりました。ミヨさんの没後、ある程度の年齢になった私と妹が両親や親戚の話から考察するに、ミヨさんは「縁結びのやり手」だったと思われます。
ミヨさんが自身の婚姻にあたり、どれくらいの手腕を発揮したのかは全く情報がなくわかりません。私が知っている、ミヨさんの最初の縁結びは養子縁組です。曾祖父母(ミヨさん夫婦)には子供がなく、ミヨさんは敬愛する自身の兄の子である甥を養子に選びました〔縁組その1〕。それに先立ち、養子の結婚相手として知人の娘さんをキープ(ミヨさんは和裁を教えていたので、お目当ての娘さんを習いに来させていたようです)。こうして養子と同時にお嫁さんを迎え〔縁組その2〕、生まれた初孫が私の父でした。ミヨさん47歳の時です。
父の3年後に私の叔父が生まれ、父と叔父は曾祖父母の下で育てられました。養子となった私の祖父は海軍に所属し県外任務に就いており、ミヨさんは大事な跡取りである孫兄弟を手元に置きたかったのでしょう〔縁組その3、孫達を準養子として、ミヨさん子育て体験〕。ミヨさんは働き者の姉やさんを見つけ、家事と子育てを手伝ってもらうべく、姉やさんを仕込みます〔縁組その4〕。姉やさんが年頃になると、家の近所の男性と娶わせます〔縁組その5〕。こうして結婚しても姉やさんはミヨさんのところへ手伝いに来てくれました。
父が年頃になった時、ミヨさんは縁組手腕を発揮すべく手ぐすね引いて待っていたに違いありません。ところがなんと父は、自分でお嫁さんを見つけてきてしまいました。ミヨさんが黙っているわけがなかったと思います。ひと悶着あったに違いありませんが、当人たち(父母)からはもちろん、親しくしていた姉やさんからもその話は聞けませんでした。封印されたのかな?こうして生まれた初ひ孫が私です。ミヨさんは女の子が生まれてとてもがっかりしたと聞いています。ミヨさんから選ばれてお嫁に来たのではなかった母は、肩身の狭い思いをしたでしょうか?でも私はミヨさんにとてもかわいがってもらいました。どこへ出かけるにも小さい私を連れて行ってくれたのです。
嫁いでから数年後、すっかりミヨさんの信頼を得た母のために近しい人間が近くにいる方がよかろうと、ミヨさんは母の妹に縁談を世話し家から7分ほどのところに嫁がせることに成功します〔縁組その6〕。
次が前出の叔父です。ミヨさんのお友達の孫娘が、高校を卒業した翌年に11歳年上の叔父のところに嫁ぎます〔縁組その7〕。今で言ったら「それ、犯罪じゃない?」ってなものですが…今回思い返してみれば、ミヨさんはかなり前から二人を結婚させるつもりで先方とも約束を交わし、娘さんの高校卒業を待っていたのかもしれません。その娘さんである叔母は健在なので、今度尋ねてみようと思います。
以上が、私が把握しているミヨさんの縁結びの記録です。「ミヨさんは策士だった!」というのがひ孫である私のミヨさん評です。おばあちゃん、怒ってるかな?(事実を基に、若干の推理も交えて記述しました)
(令和3年3月号)