浅井 忍
『新潟市医師会報』が創刊されて50年が経過しました。その半分の25年間、私は編集委員、編集委員長、広報担当理事を務めさせていただき、さらに『新潟市医師会百周年記念誌』の編纂委員、ホームページの開設とその後の運営に関わらせていただきました。その間、会報は変化しいくつかの新しい企画が始まりました。この度、600号記念号の発刊にあたり、『新潟市医師会報』の略史を、100号毎の記念号を軸として特に私が関わった後半の25年について書かせていただくことにしました。「私家版」的な内容が含まれていますがご容赦ください。
私が編集委員になったのは、残念なことに、300号が発刊された翌月の1996年(平成8年)4月だった。300号は、同年3月28日に発刊された。当時、新潟市医師会は白山浦の白山市場の隣にある建物に入っていた。同期の新任の編集委員は、笹川基先生、相馬博志先生、佐藤弥生先生だった。4名の新任編集委員を手ぐすねを引いて待ち構えていたのは、私たちのおよそ2世代上に感じられた大井顯三先生、田沢国一先生、三條和夫先生、横山芳郎先生、志賀弘司先生であり、私たちと同年代の畠野達郎先生であった。
当時、委員全員が集まる編集委員会は月2回あり、最初の会議は昼休みの時間に開催され、内容はその号の大枠が示されるだけで会は短時間で終わった。各委員の目の前に、お茶とお菓子が熟年の女性によって運ばれてきた。2回目は、現在と同じように19時30分に始まり、もちろんお茶とお菓子つきで校正作業が行われた。稲月作之助会長が、委員会の冒頭の挨拶でよく口にされていた言葉を思い出す。「編集作業とは終わりのないマラソンのようなもの」というフレーズの後に、編集委員への労いの言葉で結ばれた。
先輩の先生方があまりにも大胆に校正することに驚いた。そこまで直していいのだろうかと疑問に思った。ここで校正について私見を述べさせていただく。「玉稿」という言葉があるが、他人が書いた文章をあだや疎かに扱ってはいけないという意味が込められていると思う。その玉稿をいとも簡単に直してしまうことに驚いたのだ。直すには執筆者が納得できる根拠がなくてはならない。校正する編集委員は所詮素人である。委員の思い込みで直してはいけない。原著を尊重すべきである。
1970年度の「事業報告書」によれば、1970年12月23日に第1回編集委員会が開かれている。『新潟市医師会報』の創刊号はその4か月後の1971年4月28日に発刊された。創刊号には編集委員の名前の記載がないが、「事業報告書」に記載されている編集委員は、委員長が大井顯三先生、副委員長が稲月作之助先生、委員が小山祟熙先生、佐藤俊夫先生、小飯塚元先生の5名である。
創刊号の表紙絵(図1)は小飯塚元先生が担当され、モノクロの点描タッチで信濃川の上流西詰から見た萬代橋が描かれている。なお2004年4月23日に、万代橋の表記が萬代橋に変更されているが、本稿では萬代橋の表記だけを用いる。表紙の題字は隷書体で書かれた鳥居恵二先生の書である。193号(1987年4月)からは、篆書体で書かれた笹川重男先生の書に替わる。創刊号に掲載されている記事は、あいさつとして、「創刊号に寄せて」と題して宮尾正雄会長が、「新潟市医師会報創刊を祝う」と題して葊神伊藤新潟県医師会長が執筆されている。学術は植木幸明新潟大学医学部脳神経外科学教授が「救急医療(救急外傷医療)におもう」というタイトルで書かれている。そのほか寄稿が9本あり、あとがきは大井顯三先生が担当され、落ち着いた文章で創刊の意気込みが書かれている。頁数は18頁である。
1971年10月20日に、『新潟市医師会報』は第三種郵便物に認可された。第三種郵便物とは、営利を目的としない定期刊行物の郵便料金が安くなる制度である。これで、晴れて国から認められた会報ということになった。
100号(図2)は1979年7月に発刊された。表紙絵は小飯塚元先生が萬代橋を下流東詰めから描いている。右にはNTTの電波塔が左にはホテルオークラ新潟が鎮座している。ちなみにホテルオークラ新潟の開業は、1978年10月5日である。巻頭言は宮尾正雄会長が、祝辞は相沢三雄新潟県医師会長が執筆されている。寄稿数は46本で、この寄稿の数から100号にかけた編集委員の意気込みが感じられる。寄稿のうち100号を祝福する記事は12本である。タイトルだけから判断したので、100号を祝した内容の記事はもう少し多いかもしれない。頁数は55頁である。
「わたしの好きな店」は111号(1980年6月)から始まった。それまでは、書く内容に特に指定がない「私の往診鞄」というコーナーがあった。「私の往診鞄」は94号(1979年1月)から始まって、「わたしの好きな店」に引き継ぐ形で消滅している。初回の「わたしの好きな店」は加藤吉策先生が、古町の今はなくなったバーを紹介している。「わたしの好きな店」の味のあるタイトルの題字は、コーナーが始まって以来、現在も変わっていない。
表紙絵は創刊号から192号まで小飯塚元先生が担当され、193号(1987年4月)から小林晋一先生が担当され現在に至っている。
200号(図3)は1987年11月に発刊された。表紙絵は、小林晋一先生が担当され、萬代橋が信濃川の上流東詰からの構図で描かれている。巻頭言は松元寿会長が、祝辞は川上清治新潟県医師会長と君健男新潟県知事が執筆されている。寄稿数は48本、頁数は66頁である。
253号(1992年4月)から、表紙絵がカラーになった。200号は記念号なので、特別にカラーであった。
300号(図4)は1996年3月に発刊された。表紙絵は、小林晋一先生によるホテルオークラ新潟の上階から描いた萬代橋の俯瞰図である。素晴しいの一言に尽きる。巻頭言は稲月作之助会長が書かれ、祝辞は松元寿新潟県医師会長と荒川正昭新潟大学医学部長が書かれている。寄稿数は56本、頁数は91頁である。
322号(1998年10月)から、それまで使われていた「,」が「、」に変わった。編集委員になったときから、「。」と「,」の組み合わせに違和感があった。編集委員会で「,」を「、」に変えることを提案した。なぜ「,」が使われていたのか理由を調べると、1952年に政府は「公用文作成の要領」で、なるべく横書きとし、「。」「,」を使うと定めた。ところが、パソコン入力が広まった1990年代から、コンマは徐々に廃れていったという。現在は多くの省庁が、「,」ではなく「、」を使っている。
349号(2000年4月)から、それまで2号続けて同じ表紙絵であったが、毎号新しい表紙絵になった。
354号(2000年9月)から、会誌の印刷会社が、発刊以来30年間担当していた文久堂から新高速印刷株式会社に変更になった。印刷業界はITの導入で省力化が進み料金が安くなったが、文久堂の経営方針がこうした進歩に対応しなかったことが、変更した理由である。会誌の背表紙の上部に5ミリの色をつけた。本棚に会誌が並べられたときに、発行年が一目でわかるようにした。
2000年9月4日に「新潟市医師会ホームページ」が開設された。その約5か月前に、佐々木繁会長の肝いりで新潟市医師会ホームページを作ることになった。ホームページ小委員会のメンバーは、私のほかに、川合千尋委員長、長谷川誠先生、1年後に加わった中山徹先生、お目付役として横山芳郎先生、担当理事の佐藤弥生先生であった。さらに医師会事務局の山上泰明さんと加藤絵美さんが加わった。ホームページ作成ソフト『ホームページ・ビルダー』を使っての手作りだった。当時、ホームページ作成会社は数える程しか存在しない時代であり、ホームページを外注するという発想はなかった。実際のページ作りを山上さんと加藤さんにやっていただき、委員はアイデアを出したり文章を書いたりした。第1回のホームページ小委員会は、2000年4月17日に行われた。
14年後の2014年4月に、ホームページがリニューアルされた。手作りホームページが時代遅れとなり、新高速印刷にリニューアルを委託した。その際、XHTMLとムーバブルタイプの機能を学ぶため委員が新高速印刷に出向き、システム・エンジニアの講義を受けた。今のホームページはブログ機能と通常のホームページ仕様が合体したハイブリッド・タイプとなっている。ホームページ小委員会は、2010年1月までは毎月行われ、同年3月から隔月開催となった。
359号(2001年2月)から「美術のページ」が始まった。毎年11月の最終土曜日に開催される新潟市医師会総会には、会員の先生方の美術作品を展示する「天狗展」が開かれている。そこに出品された作品を、翌年の2月号の「美術のページ」に掲載することになった。
2001年5月1日に、新潟市市医師会メ-リングリスト「ninja」が立ち上がった。「ninja」は川合千尋先生の命名である。
364号(2001年7月)から「理事のひとこと」が始まった。最初の「理事のひとこと」は、当時広報部長だった佐藤弥生先生が、「理事のひとこと、二言、三言」というタイトルで書かれている。編集委員会は理事の先生方に持ち回りで書いていただくことを提案した。理事会では反対意見が出たというが、佐々木繁会長の鶴の一声で、「理事のひとこと」の誕生が決まったと佐藤弥生先生からお聞きした。
385号(2003年4月)から、「あとがき」の下の欄に、編集委員の名前および広報担当理事の名前を明記することにした。理由は『百周年記念誌』の編纂作業で、編集委員の名前が明記されていないことで、困ったことがあったからだ。
編集委員会の内規では、巻頭言は、会長が年2回、副会長が1回ずつ、残りの8回を新潟大学医学部の新任教授と、新潟市の病院の新任病院長に執筆していただくことにしている。そのほか、適任の執筆者を選び依頼するが、適任者が見つからないこともある。執筆者が見つからず、396号(2004年3月)の巻頭言は当時編集委員長の私が書かせていただいた。会誌の体裁からは巻頭言がないと体裁が整わないが、第三種郵便の認可の条件に、巻頭言や学術論文が必須という決まりはないから、極端なことを言えば巻頭言や学術論文がなくとも構わないと考えている。
398号(2004年5月)まで、会誌の巻末に21×22字の原稿用紙2枚を投稿用につけていたが、この原稿用紙を使っての投稿がまったくなくなり、翌月号から止めることとなった。
400号(2004年7月、図5)の表紙絵は、小林晋一先生による八千代橋から見た信濃川と萬代橋である。巻頭言は佐々木繁会長が、祝辞は倉品克明新潟県医師会長、松元寿元会長、稲月作之助前会長がそれぞれ執筆されている。寄稿数は44本、頁数は99頁である。
402号(2004年9月号)から「経営アドバイス」が始まった。医業に関する法律や経営にかかわる事柄をQ&Aの形で答えるもので、執筆者の高橋信太氏は若くして公認会計士の試験に合格され、新潟大学で講座を持っていた。初回のタイトルは「一人医療法人のメリット・デメリット」であった。「経営アドバイス」は毎月掲載され100回まで続いた。2012年12月から一旦休み、504号(2013年3月)から「新・経営アドバイス」として再開され、四半期に1回の掲載となっている。
405号(2004年12月)から、1年間の記事の索引をその年の12月号の巻末に載せることにした。
422号(2006年5月)から、書評のコーナー「マイライブラリィ」が始まった。初回は相馬博志編集委員長が『食品の裏側』(安部司著)を紹介している。
2008年11月28日に、『新潟市医師会 創立百周年記念誌』が発刊された。HTMLで電子化した記事のCD-ROMを添付した。翌日の新潟市医師会総会に間に合わせて発刊したものだった。編纂委員は、私のほか相馬博志先生、川合千尋先生、清水直也先生、佐藤弥生先生であった。第1回編纂委員会は2006年8月23日に開かれている。編纂作業を毎週月曜日に行ったが、発刊は予定より半年近く遅れてしまった。
2009年4月に、新潟市医師会は中央区紫竹山にある旧新潟市民病院の建物に移転した。
457号(2009年4月)から、年に2回の随筆コーナー「陽春薫風」と「月灯虫音」が始まった。
個人的なことになるが、私は2010年3月に2期4年務めた理事を辞することになった。大川賢一会長に強力にバックアップしていただいて、新潟市急患診療センターに整形外科医が出務することになったものの、新潟市整形外科医会をまとめることが出来なかったことが理由だった。会長となることが決まった佐野正俊先生から電話をいただき、新年度から再度編集委員長に委嘱すると伝えていただいた。
500号(2012年11月、図6)の表紙絵は、小林晋一先生による佐渡汽船展望食堂からの風景で柳都大橋の上流に萬代橋が望見される。巻頭言は佐野正俊会長、祝辞は佐々木繁元新潟市医師会長、大川賢一前新潟市医師会長が執筆された。寄稿数は39本、頁数は80頁である。
100号毎の節目で描かれた表紙絵はすべて萬代橋である。1964年(昭和39年)の新潟地震で、昭和大橋と八千代橋は無残に落下したが、萬代橋はビクともしなかった。萬代橋は新潟市のシンボルと誰もが認める建造物である。1886年(明治19年)に初代萬代橋が信濃川に架かけられた。現在の萬代橋は三代目で、2004年7月に国の重要文化財に指定されている。
542号(2016年5月)から掲載されている「私の憩いのひととき」は、映画と音楽に特化したコーナーを作ろうというのが始まりだった。新コーナーに否定的な編集委員もいたが、とりあえず走り出した。現在も執筆者の確保に手こずっているコーナーであるが、なんとか続いている。
554号(2017年5月)から始まった「病気と健康のあれこれ」は、『市報にいがた』に掲載されていた「健康一口メモ」に起源がある。かつて各科の代表が持ち回りで市民向けの医療情報を『市報にいがた』に執筆していた。2000年9月のホームページ開設に伴い、医療情報の提供をホームページ上で行うこととなった。それをホームページだけではなく、会報にも載せて会員の先生方の目に触れるようにしようという考えから、会報の記事になった。
最後に、会報が誰にまたどこに届けられているか紹介する。まずは会員である。さらに、新潟大学医学部各医局、新潟県内の病院、新潟市医師会と交流のある全国の医師会、新潟市図書館、新潟市役所、新潟市長、新潟市保健所、国保連合会、社会保険診療報酬支払基金、新潟市歯科医師会、新潟市薬剤師会など、そして国会図書館にも送付されている。
筆をおくにあたり、私が長い間『新潟市医師会報』の仕事に携わることができましたのは、ひとえに歴代の新潟市医師会長をはじめ、諸先生方ご協力とご支援の賜物です。感謝を申し上げます。また、表紙絵のキャプションについてご教示いただいた小林晋一先生に感謝申し上げます。さらに、医師会事務局の、小林祐一さん、藤井亮子さん、山上泰明さん、加藤絵美さん、坂本優さん、馬場貴之さん、そして現在、会報・ホームページを担当されている山田薫さん、松田裕美子さん、大変お世話になりました。特に山田薫さんには、本稿を書くにあたりお手伝いいただきました。皆様に厚く御礼を申し上げます。
最後に、私が編集委員になるきっかけとなったのは、高橋康昭先生の「きみは、読書が好きなんだって」という一言です。
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(令和3年3月号)